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青い世界にいた。
これが比喩とかなら美しいのかもしれないけれど、デッサンや白黒写真を全部青に置き換えたような、そんな感じ。
とりあえず、想像できるほど美しくないってこと。
視界に広がるのは小さめの部屋。
6畳間ほどの部屋だ。子供が使うような木の丸椅子と、それより二回りほど大きいスクエアテーブルと…カーテン側に立つ1人。
少し前まではよく私をなんとも言えない顔でみていて、少し気味が悪く思っていたが、最近は他のことで忙しそうだ。
人はやたら難しそうな顔で、手に薄っぺらい板をもち、目の前のこれまた薄く四角い板に向き合い、何かを乗っけては塗って、時々鋭利なものに持ち替えてを繰り返していた。
私の目には全てが青色でその差が押し測れないのが惜しいなと思う。でもその人の表情はだんだん柔らかくなっていくあたり、思い通りの状態になってきているんだと思う。
突然その人の動きが止まった。どうらや目の前の板が完成したようだ。何かはわからないけど、嬉しそうな表情を見る限り、私も嬉しいよ。
不意にこちらをみて、来た。
私を抱えた人は明るい場所に私を持って行って
思い切り分断した
ばきん!と大きな音を立てて、私は綺麗に真っ二つになった。
そうか、さっきこの人が見つめていた板が、この人が本当に求めていたものだったのか。
私は無意識に、この人に私が必要だと勘違いしていた。
仕方のないことだと思う。本当に必要なものが現れたのなら、それを大切にしてあげないと。じゃあ、私は失敗だったのかぁ。
この人は多分私を作った人だ。あんまり覚えてないのは、同じ色の絵の具を沢山塗りすぎて、視界がおんなじ色、青色になってしまったからだ。よく見えなくてごめんね。
燃やされていることに気がついた。
この時初めて、自分に描かれたものを知った。
思い出した。
そうか、この人は……
炎で燃やされている時、青い絵の具が溶けて、私に駆け巡った。
そういえば、私が物置から引っ張り出された時、この人はずぶ濡れで、外から帰ってきたままでも構わず、私を描いてたっけ。
初めてみた世界は、私の青い世界にそれはふさわしいものだった。それ以外を見つめたことがあまりないから断言するのはおかしいのかもしれないけれど、一粒一粒がプリズムの様に光っては消失する様が、この世で1番美しいと思った。
でも青い視界の、私の青の下には、当時のこの人の心を表すかのような、淡い淡い桃色が塗られていた。
多分そのプリズムはこの人がこの桃色の人と過ごした時間や思い出で、枷になってようやく今、さよならできるんだね。
大丈夫、あの雨と一緒に、ちゃあんと桃色も持っていくよ。
ようやく前に進めるんだね。
私はあなたを支えられたんだね。
おめでとう。
私を作ってくれて、ありがとう。
愛してるよ。
次々に溶け出すさまざまな青は、あの日の雨を彷彿とさせた。
どうかあなたの中の私が、いつまでも美しいままで。
「通り雨」より
(注意・長いです、推敲とかせず淡々と綴ったものなのでグダグダです)
『 』
今日この街では、子供達が袋なり小バケツなりを持ち、仮装をした可愛らしい姿で走り回る姿が見られる。
その街のマンションの一角に住む俺の部屋にも、先程近所に住む子供達から「トリックオアトリート!」と元気に玄関扉をノックされた。彼らのために事前に用意しておいたお菓子詰めを渡すと、その中で1番の最年少であろう魔女から「おにぃちゃんにもサチあらんことをっ」とおまじないを受けた。彼女なりに厳かに振る舞っているつもりなのだろう、年の割には少し難しい言葉を少しだけたどたどしく言う姿が愛らしかった。彼らはこちらに手を振りながらエレベーターへと向かい、俺は彼らが見えなくなるまで手を振っていた。
部屋に戻って間もないうちに、インターホンが鳴った。
彼だと直感した。今年も来てくれたという安堵と喜びが水彩絵の具のように、じんわり滲み始める。
少しずつはやりはじめた心と同期するように玄関へ向かう足もはやくなった。
「やっほう、おにぃちゃん」
「……さっきのみてたのかよ」
いたずらっ子のような無邪気な笑みを浮かべて立っているのは、俺の10個年上の兄である。
血の繋がらない、俺が9歳の頃に死んだ兄だ。
俺が兄の歳を超えた時から、兄はハロウィンのこの日にだけ俺の前に現れるようになった。
年に1度だけ現れる、鮮やかで美しく、残酷な俺の呪い。
ーーーーー
「子供は可愛いねぇ、昔のお前を思い出すよ。今やこんなにでかくなっちまって」
「ははは、俺が兄貴よりでかくなっちまったことを僻んでんのか」
兄はこの日になると、俺の前に現れる。初めて目の前に現れた時、反射的に手に持っていた荷物を全て兄に投げつけてしまったものであるが「いったいな!何すんだ!」とさも当然のように荷物に潰されて怒った様には拍子抜けしたものだ。
兄が来たからとて、特別なことはしない。いつもより豪華な食事を用意し、共に食べる。お互い昔から好きだったゲームをしたり、酒盛りをしたり他愛もないことを駄弁ったり、仕事のストレスや相談に乗ってもらったり。
そうしているうちに朝が近づいて、兄はここから消える。大抵俺は寝てしまって、兄の見送りは叶わない。兄がどこへ行ってしまうのか、見送りたくて限界まで起きているが、不思議とそれが成功したことはただの一度もない。
あ、美味そうと俺の料理を見つけるなりさっさと席につき、俺が席に着くのを待っている。
「相変わらず食い意地張ってるよね」
俺も席について、いただきますと言った。兄もそれにならう。ものすごい速さで机いっぱいに並べた料理が無くなっていく。今年もいい食べっぷりだ。
「う〜ん、美味しい!また腕をあげたなぁ、よきかなよきかな」
家族ながら本当に良い笑顔過ぎて、褒められてももはや恥ずかしさすらない。ただ、自分の料理を食べるのは現在俺自身か兄くらいなので、自然と頬が緩む。
「在宅ワークが多くなったし、どうせなら美味いもん食いたいだろ。外より自分で作った方が安いし、はやかった」
「でった天才肌。兄ちゃん嫉妬するわ」
かく言う兄は、中高は生徒会長だった。俺たちが通った学校は一応進学校として通っていて、勉学もそこそこに、気転が聞いて人脈や信頼もある人間にしかなれない奇特なポジションであった。
ということで、身体能力にステータスを全振りした弟は、割と兄がすごい人だったと思っているよ。
「だったって過去形かよ!」
そうやって兄は豪快にうわははっと笑って、料理を平らげた。
成長してなんとなく気がついたが、いかつい顔つきで体格の良い俺と違って、兄は柔和で中世的な顔立ちだった。身体も決して強くなく、むしろ骨が目立って弱々しい。そのくせ声はやたら芯があって響くし、強気な性格も相まって、強かだと思う。
兄は父さんの連れ子で、俺は母さんの連れ子だった。俺がまだ赤ん坊の時の再婚だったことと、親が共働きで家に不在のことが多かった為、必然的に兄と共に過ごす時間は増えた。
兄は俺のためになら何にでもなってしまうような人だった。親、友達、善人、悪人など、どんな役も買って出た。些か過保護過ぎると、今思えばそうだったかもしれない。さっきも言った通り、見た目からは拍子抜けするほど気の強い人だった。
まだ成長期が来ずチビだった俺が、クラスメイトにいじめられた時、たまたま兄が通りかかって、そいつらが泣いて逃げ帰るくらいの形相でその場を見ていたらしい。そいつらの反応から、怖すぎて俺はその顔を見ていないし、想像も出来ない。でもちゃんと、その時するべきことやしてはいけないことを教えてくれた。
頭を撫でる、小さいけど大きい手のひらが、今でも思い出される。
俺の欲しいことや言葉以外にも、俺を成長させるための厳しいこともたくさん与えてくれて、人としても尊敬できる人だ。
俺は兄がかけがえのないくらい大好きで、兄も俺をずっと俺を愛してくれている。それは今でも変わらない。。
兄がそんなふうにある種腹を括ったのは、俺が5歳の時、両親が死んだからだろう。
親に恩を全く感じていないということではないが、直接的な関わりや幼少期の世話は全て兄ありきだったので、親が死んだということを知らされたとき、あまり悲しいという気持ちは起きなかった。
側にいないが故、顔がぼんやりとしか浮かばないような存在だった。
15歳にして、1人で俺たちの生活全ての責任を背負わざるを得なくなった兄。俺がそれに気がついたのは、兄が死んだ後のことだった。
普通俺たちのような子供は、児童養護施設なり、親戚になり引き取られるはずだとか、その他諸事情生活費のやりくりなど疑問に持つべきことなんかいくらでもあったはずだった。
なのに俺は何も知らず、兄が死ぬまで守られ続けてしまったのだ。
親が残した遺産のことも、それを目当てに近づく大人から俺たちの生活を必死で守っていたことも。
食事を終え、いつものようにゲームをしていた。腹休めにホラーゲームをしていた時、丁度キャラクターたちがハロウィンを題材とした都市伝説の話をしていた。ハロウィンの日に乗じて彼氏に殺害された女性が怨みを持って、夜に菓子をねだる歌を歌いながら、自分を殺した彼氏を見つけるため部屋に押し入ってくるというもので、キャラクターたちはおっかなびっくりしながらも、笑い飛ばして話は流れた。
「ははっ、オレかよぉ」
少し酔うと兄は自称をオレという。
そんなことではなく、俺は少し背筋が凍った。コントローラーを握った手のひらが汗ばむ。
やはり兄は俺を恨んでいるのか、と。
兄が俺の前に現れるのは、俺が兄を殺してしまったからだ。
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その月で俺は10歳になる予定だった。新しいゲームやプラモデル、男児なら一度は憧れる玩具は、こぞってその月に発売されることが多かった。
その中で、一際輝くプラモデルがあった。
子供の腕ではおさまらないほどの、大きな戦艦のプラモデル。全身がプラチナ色で覆われたそれは、遠目からみてもキラキラと輝き、自身の美しさを自覚しているかのように、堂々と玩具屋のウィンドウの真ん中に鎮座していた。
大きくリアルが故パーツが多く細かい、美しい造形を売りにした大人向けの玩具。
そして、そのクオリティに見合う値段でもあった。
9歳といえど、その桁は誰が見ても決して安くないものだと理解できた。毎年欲しいものを買ってくれる兄であるが、こんなに高いものは、そう簡単にねだれなかった。
しかしこの美しいプラモデル以外、どうにも思い付かなかった。あれほど美しいものを目にした後は、子供のおもちゃはどれも陳腐にみえた。新作ゲームも兄がほとんど網羅しているため、あれ以外欲しいものも思い浮かばなかった。
子供でも高いとわかる金額
でも、あれを組み立てたらきっと
兄と組み立てても良いかもしれない
プラモデルのある日常が徐々に脳内に侵食しては、子供ながら金額という理性でおさえる。
そうしているうちに日々は過ぎ、俺の誕生日になった。
「ねぇ、最近どうしてそんな浮かない顔してるの?」
「……」
「欲しいものがなかった…って訳じゃなさそうだね、そう言う時は言うもんね」
そこではっと、しまったと思った。現実と理想に集中し過ぎて、何もいらないと兄にいう手を打ち損じていたのだ。それが出来なかったことを、悔しく感じた。
「……もし何か、そう、例えばお金のことで悩んでいるんだとしたら」
俺は兄に何も隠し事ができない。いつも全てを見透かされて、悩んでいたら解決へとともに進んでくれる。きっとそういうところに甘えすぎてきた。
「おれ、あにきが自分にお金使ってるとこ、知らない。あにきだって少しくらい自分のことに使ってほしいよ…」
兄の言葉を遮って言った。事実だった。
兄の部屋は必要最低限の家具と、大学で使う本や教科書やらしかなくて、ゲームだって初めは俺がしたい!と言い出して、仕方なく一緒にしてくれているのだと思っていた。
兄はしばらく無言だった。少し驚いた顔をしたかと思えば、難しい顔をしたり、口元が緩んだり、締まったり。一言では簡潔しない表情がくるくる忙しく回って、最後にひどく愛おしそうな顔に変わった。
「……こんな優しい弟を持って、僕は幸せだね。弟がお前で……生きててくれてよかった」
そうやっていつものように頭を撫で、膝をついて俺を優しく抱きしめた。9歳と19歳じゃ身体の大きさが違いすぎて、俺の両腕は抱きしめ返した時つながらない。
少し身体を離して、兄は言った。
「僕はね、お金で時間と幸せを買ってるんだよ」
驚いた。どちらも目に見えなくて、後者は誰だって欲しいはずのものなのに、どんなにお金を積んだって買えない人もいることを学校で習ったからだ。そんなに価値があるものを、兄はどうやって手にしたのだろう。
「すごい!あにきは幸せが買えるの?幸せって何円するの?いちおく円?!」
興奮気味にそう問うと、兄は目をまんまるにした後、うわははっとお腹を抑えながら大声で笑った。
こちらとしては真面目な疑問であったのに、笑われてしまうと馬鹿にされたようでどうもムッとする。しかしそれは束の間で、兄は付け足した。
「ごめんごめんっ、言い方が変だったね。僕は、その先にあるものが欲しいんだ
知っての通り、幸せっていうのは店には売ってないよね。でもね、仮に幸せが売っていたとして、それはその人が求めていた幸せとは限らないんだよ。苺が欲しい人は葡萄を買わないし、葡萄が欲しい人は苺を買わないよね」
兄の話はよくわからなかった。
「俺はブドウよりイチゴが好きだから、イチゴを買うよ?」
うんうんと頷いて兄は続けた。兄は中々に説明が下手くそだし、俺も俺で馬鹿だ。
「人はモノの向こう側にあるものを求めるんだ。僕がゲームを買うのは、勿論ゲームが欲しいからっていうのがあるんだけど、じゃあなんで欲しいの?って言われると、お前と一緒にゲームをするっていう目的と時間が欲しいからなんだ」
兄は俺とゲームをして遊ぶ時間を望んでくれていた、それを知って、自分の目が潤んだことを自覚した。
「……自分の幸せが何かわかってれば、買うものもわかるってこと?」
「そうそう!
……どれだけお金を費やしても手に入らない人がいるって言ってたけど、その人は多分何を買えば自分が幸せになるか、まだ探してる最中の人なんだ。本当は欲しくないものに沢山お金を使う人もいっぱいいるよ」
そこまで言って、兄は区切った。
「話がそれた、ごめんね。
つまりお金がかかっても、お前が喜んでくれる、一緒になって笑おうって言ってくれるものなら、それは俺にとって億にも兆にも、無量大数にも勝るんだよ」
お前の幸せが俺の幸せで、欲しいものが手に入って幸せになることも同じことなんだよ。
これが中々恥ずかしい台詞だということは俺は知らなかったし、あまりにも真剣に言うのと、兄の言うことを全ては理解しきれなかったのもあって、俺は黙ってしまった。
俺は自分の目から涙が流れていることに気が付かなかったが、兄はまるで気が付いていないように優しく微笑んで頭を撫で続けた。そして、俺が口を開けるようになるまで待ってくれた。
しばらくの後。
「おれね、すごいほしいプラモがあるの」
でもすごくお金払わなきゃいけない
でもすごくきれいで、かっこよくて、あれにのったら絶対どこまでも進めるの
でもひとりじゃ出来ないかも、大人がつくるやつだから
でも、あにきとやったら楽しいんだろうなって、夢にも出てきたんだよ
でもでもと繰り返して、途切れ途切れで下手くそな言葉。それでも兄は、それはそれは嬉しそうに聞いてくれた。そしてやはり泣いている俺の頭を撫でながら、不意にどこかに電話をかけた。
「もしもし、はい、すみません遅くに。いつもお世話になってます。」
兄の口調は穏やかで、相手に対して敬語だが親しみがあった。
「すみませんがお店のウィンドウに飾ってある……そう、そうです。まだありますか?…そうなんですか!すみませんがとっといて貰いませんか?もう閉めてると思うので明日伺い…………
…え!?ほ、ほんとですか!?」
突然声を上げる兄。声色に喜びが混じっている。
「ありがとございます!すぐそちらに伺いますので…!本当にありがとうございます!……失礼します」
兄が電話を切って俺に向き合う。
「やった!今からそのプラモ売ってくれるってさ!玩具屋のおじさん、いつも登下校ずっと眺めてた子のために1つとって置いてくれたんだって」
頬をぎゅうぎゅうと包みこまれた。言わずもがなその子供は俺のことである。バレていた恥ずかしさとおじさんの優しさが心に染みてゆく。空気は高揚と温かみで包まれていた。
素早く身支度を整えた兄は颯爽と玄関へ向かい振り返り言った。
「待っていろ弟よ!兄ちゃんがすぐにあのプラモを迎えにいってやる!」
そしたら一緒にケーキ食べような
街の街灯のみが光る闇の中に、兄は溶けていった。
それから俺は、ソワソワと兄の帰りを待ち侘びていた。
これから兄が幸せを持って帰ってくる。兄の言っていることはまだわからないけれど、俺が欲しいものを前にする時は、いつだって兄が一緒だった。だから、兄の欲しいものが俺の欲しいもので、兄の幸せが俺の幸せだ。
俺も兄が笑っているところが1番好きだ。多分それが俺の幸せ。世界で1つだけの非売品。
一本の電話がかかってきた。
たった2人の家族は、互いに依存し合うことでしか、この世界で生きる術がなかった。大人ですら、この未熟な子供たちを食い物にしようとする世界。
どうすれば、上手く生きることができたのだろうか。たった2人で。
『もしもし、ーーーさんのお宅でしょうか。こちら◯◯病院のものですが、』
今まで欲しがってきた代償なのだろうか
兄の言ったことは、全部嘘だったのだろうか
俺が欲しがったら兄も幸せで、俺も幸せで
いや、兄はそんな人じゃない、でも
俺、今、全然幸せじゃないよ
だって、俺が欲しいって言わなかったら
お互いきっと、1番大事なものを失わずに済んだのに
そこまで思って、自分は兄の1番大切なものを聞きそびれた気がした。
あの日のプラモデルは、まだ箱から出せずにいる。
ーーーーーー
俺が兄を殺したというのは、こういうこと。なんだ殺してないのかという奴もいるが、これは殺しだ。
俺がそう思っている。
俺が俺に刃を向けている。
どうして俺から兄を奪ったのだと、憤っている。
今までもそうだったし、これからも変わらないことだ。
「なぁ、今、しょーーーもないこと考えてるよなぁ」
訝しげに、でも確信を持って兄はこちらを見つめている。その真っ直ぐ過ぎて俺を射抜く瞳は昔からの憧れで、今は恐ろしい。
「ううん、なんにも」
俺は誤魔化せないことをわかってて、あえて性懲りも無く嘘をつく。そしたら兄は、俺の頭をわっしゃわっしゃと撫で回し、いつまでも子供扱いしてくれる。それで終わらせる。
「……オレが死んだのは、飲酒運転の車に引かれたからだ」
兄は酒の入ったジョッキを片手に呟き始めた。なんの抑揚もなく、誰かに言い聞かせるように淡々と。
「オレ、やり残したこといっぱいあるんだよなぁ。主にお前のことだけど」
当時俺は10歳。あの後は親と兄の貯めた、多すぎる貯金をひた隠しながら養護施設で過ごし、高校に行く時独り立ちした。同時に、あの時の玩具屋のおじそんに預かっていてもらった兄のゲームコレクションと、開かずのプラモを引き取りにいった。どうしてもこの2つは処分できなかった。
どこにいっても、友達というものには恵まれなかった。俺の身体は小心と反比例する様に、丈夫で大きくなる一方だった。
俺の見た目を恐れて人は寄り付かなくなったし、俺もそんな小心を隠すため、人との関わりは持たなかった。
俺が施設に入った後先も、おじさんは何かと気にかけてくれた。
兄が車に轢かれたのは店を出た直後で、おじさんは多分その現場を目撃している。優しいおじさんはいつも俺に笑顔をたやさずにいてくれたが、瞳の奥には切なさがみえて、ここまでよくしてくれること、俺を憐れんだりせず対等に接してくれたことに感謝をして、店を後にした。
バイトをして金を稼ぎ、残された金には手をつけず、かと言って手放さず。戒め、お守り…色々な名分で側に置いていた。
兄は多分それを知っている。特に親の残した遺産は宝くじが幾度も当たったような額で、所謂「働かなくても生きていける」ほどであった。でも俺は、そんな額より兄がいて欲しかった。そんな額があっても、俺は兄がいる暮らしを買えない。
昔話した「幸せはお金では買えない人」に、俺はまさしくなってしまった。
「ちゃんと大学出て就職して、趣味…というかゲームも楽しいよ、何を心配することがあるのさ
……兄貴はさ、ほんとに過保護だよね」
我ながら天邪鬼だ。心配しなくていいよ、もう来なくても大丈夫だからって、少しの見栄さえ、俺は言うことができない。
「……そーお?まぁ正直否めんかもなぁ…。
あっお前、人付き合いもちゃんとやれよぉ。それなりにしていればそれなりにモテるはずなんだからさあ」
そんな俺を兄はわかってて、何も言わずに、もう少し側にいてくれる。
俺は10歳の誕生日から、何も変われていない。
「あの時ね、オレ、お前がプラモ欲しいって言ってくれて、まじ、本当に嬉しかったんだ」
黙ってゲームを進める。画面に目を向けながら、でも確かに兄の言葉を拾っていく。兄もゲームの画面を見つめている。
「お前自身は欲しいものとか、我儘とか言い過ぎたって思ってるかもだけどさ、オレからしてみたらすごい我慢させちまったなって、思ってるわけよ
知ってる?お前全然我儘言わないの。欲しいもん聞いてもなんもいらないって言うし」
キャラクターが敵に見つかった。追いかけっこが始まり、操作が忙しくなる。
集中出来ない。
「でもオレは……兄貴さえ一緒にいてくれればいいよって言われて、嬉しさと同時に、オレはこいつになんもしてやれないのかって、すんごい不甲斐なく感じてた
たった2人だし、2人だから言いづらいこともあったのかもしれない。お前が我慢する性格だってわかってたはずなのに……もっと聞いてやれることだってあったのかもしれないって」
操作が荒くなる。ミスが増える。敵がすぐ背面にいる。
少し声が震えていた。
痛い。
辛い。
そんなこと、言わないで。
「オレ、お前に幸せになって欲しかったのに、失敗ばっかして、死んじまった。お前を独りにするっていう、1番しちゃいけないこと、させた。オレはダメなやつで、オレは…僕は僕が、」
「もう、もういいよ、兄貴」
コントローラーを持った両手が、力無くゆっくりと下がった。画面には『game over』の文字。
俺の声は存外落ち着いていた。自身でもこんな優しい声色が出ることと、内心の乱れの差に驚いていた。
この人も……兄もまた、あの日々に縛られたままだった。自分を自分で呪っている人だった。
面白い兄。人気者の兄。努力家の兄。ちょっと抜けてる兄。優しい兄。
俺の大切な、兄。
もう何回もこういう夜を迎えてきたが、兄の本音を垣間見たのは、多分今夜が初めてだった。兄という立場だから、頑張ってくれていたのだろうか。
だったら、辛さを分けさせて、なんていうのは、この人のプライドが許さないだろう。
兄がこんな風に悩んでいたと思うと、やはり自身が不甲斐なく感じると同時に、喜びを感じるのも事実だった。俺たち兄弟は互いに不甲斐なさを隠し、互いのみを見とめあい、尽くして生きてきた。それが俺たちの幸せ。理想的であり、狂気的でもある愛情。
「俺ね、あにきさえそこにいてくれれば、いいの」
兄の目を見て言った。狂気に応えるは、狂気。
視界はぼやけているのに、兄は悲しそうな顔をしていることがわかった。その瞳は驚愕、諦観、悲哀、そして喜びをうつしていた。
その中にうつっていたのは俺の瞳で、それはもしかしたら俺の心情なのかもしれない。
視界の歪みが強くなった。
すっかり体格が逆転してしまった。俺は昔兄にされていたように、見よう見真似でそっと兄を抱きしめた。俺も兄のように行動で示せるような人になっていると、少しだけ見栄を張りたかったのだ。
こんなに頼りない細さの人に守られていたのか、俺は。
兄貴は笑った。
「……今年も楽しかったねぇ、すごく」
心底から、そうだねと返した気がする
もうあまり意識がなかった
明日もし兄貴がいたら
その時は、ずっといいたかったあの言葉を言おう
来るはずのないもしもに思いを馳せる。頭にあの手のひらの温もりを感じながら、ゆっくり、ゆっくり。意識を手放した。
ねぇ、我儘きいて
俺も連れていって
ーーーーーー
兄が365日の一夜だけ会いに来てくれる喜びも、朝が来ればまた会えなくなる、狂いそうなくらいの寂しさも。
俺への罰だ。
この罰から救われることを、俺は望まない。
兄がいなくなった世界に戻る生活は耐え難いとわかっている、それほど、もう戻ることが困難なところまで来てしまった。
一度消えた温もりに触れてしまった。きっとそれは本来戻らないもので、禁忌ですらあるのかもしれない。生者が死者を引き止める力などあるはずもなく、死の力は強大だ。
でも、兄はここにくる。
俺がいつまでもいじけていることを気にかけて、安心して「先」へ行けないのかもしれない。なら、そこにつけ込んでずっと心配していてもらおう。そう思ってしまうほど俺は最低だ。弱かった。
兄は変わらない。俺がこのままダメなやつでも、ダメなやつのままジジイになっても、不変の兄がそこで見てくれてるだけで、俺は人を保っていられる。
狂った、おぞましい思考。承知の上だ。
1人は寂しいから一緒にいたい
それだけなのに
もし救われてしまえば、兄はもうここには来ない。
だから、もし俺が生き続けるというのなら、この呪われた生活がずっとずっと続いて欲しいと、そう願っている。
兄は俺の我儘を聞いてくれるだろうか。
大丈夫、幽霊の中に人1人混じったところで、誰も気がつきやしない
それが許される日がある
いや、俺たちに限って、誰の許しも必要ないじゃないか
互いが求めているんだ
永劫の呪いにかけられることを
「秋」より