長期休みは、
フラフラとバイクに乗って
日本を遡上したり、下っていったり、
真横にぶった切ってみたりと
何となく方角を決めて走る。
旅、という感じがして、
若い頃からこの遊びが
私の一番のお気に入りだったからだ。
そういうわけで、独身貴族万歳と
しがらみもない私は毎年時期になると、
行き当たりばったりにあちこちへ
「旅」をする。
どの旅も印象に残るような出来事はあって、
まさに一期一会の楽しみがあるのだ。
それでもやはり、特別な旅というのはあるもので。
その特別な旅の中で
私が最も心に残った旅の話をしようと思う。
あれは、まだ私が若い時分の旅の話だ。
初めての旅から数年が経った頃、
だったように記憶している。
当時はだんだん旅にも慣れてきて、
相変わらず面白くはあっても
初めての旅程の刺激もないので、
どうしたものかと思っていたような、いないような。
まあとにかく、そんな感じだったのだ。
その時走っていた道の周りはほとんどが田畑で、
空がとても広かった。
それで、鼻歌を歌いながら走っていた時に、
後ろが暗くなってきたことに気がついたのだ。
不思議に思って、ミラーを見ると、
遠くの空で巨大な雨雲が
みるみるうちに大きくなって
こちらに近づいて来ているのが見えた。
こりゃあ、雨に降られるぞ、と思った。
気温はまあ、問題なくても、
視界が悪くなるので、少し面倒に思ったのだったか。
それで、私は多分若さも手伝って、
あの雨雲と競争をしようと思い立ったのだ。
割と私は善戦したと思う。
普通だったらもっと速く降られていた。
けれど、私は追いつかれて、追い抜かされてしまった。
残念だ、と雨に濡れながらバイクを停め、
空を見上げた。
そして、晴れと雨の境界線をはっきりと、
私は見たのだ。
それは、とても不思議で、でも考えてみれば
それなりに当然
起こるんじゃないかと思う出来事だった。
だけれども、私の心を掴んだのは、
私は今、雨と晴れの狭間にいる、
そして行き来できる、という
なんというか、子どもじみたよろこびだった。
要するに何か、ロマンを感じる、
心が浮き立つ瞬間だったのである。
言ってしまえば晴れのち雨、それだけだ。
でも私は、その時に
ただ地べたを走り、旅をしているのではなくて、
空もともに走っている旅の道のひとつだと
そう感じたのだ。
遠くの街へ
遠くの海へ
遠くの道へ
遠くの空へ
全部に繋がるような旅がきっとできる、
そんな気がして
どうしようもなくワクワクした。
だから私はそれ以来、
通る世界全てを走るつもりで
旅をしている。
つもり、でしかないことは分かっている。
でも、旅はロマンがなくては!とも思うのだ。
そうして、私はフラフラと気になるものを
見つけては心に留めて、時にはメモや写真を撮って
毎年旅をするのだ。
「遠くの空へ」
人魚姫じゃないんだから、
声は出るはずだった。
白雪姫じゃないんだから、
息をして、動けるはずだった。
だけど、私は結局、
童話の主人公のような
悲劇も、幸福も得られなかった。
臆病だったから
言うことも、行動することも
出来ないままで。
だから、この結末は必然なのだ。
言葉に出来なかった想いは
たぶん、ゆっくり壊死していくんだと思う。
報いかな。じくじく膿んでるみたいだ。
でも、これも恋だったんだ。
恋が果実の形をしていたとして。
私はそれを、あげることも、潰すことも、
捨てることすら出来なかったけど、
もう今はどろどろに溶けて見る影もないけど。
齧ったときの、甘い味も、苦い味も、酸っぱい味も、
全部ぜんぶ覚えてる。思い出せる。
言葉にできないような、
どろどろに腐敗した果実の味でさえ。
あーあ、こんなになってしまうなら
抱え込んでないで捨ててしまえば良かったな。
でも私は、あなたとこの果実を分け合って、
どうしても一緒に食べてみたかったんだ。
勇気が出なくて、手に持ったまま
あなたを見つめるばかりだったけど。
「言葉にできない」
川辺で咲き誇る桜
ゆるい湿気と暖かな日差し
飛び始めたシジミチョウ
鳥のボイストレーニングが始まったらしい
眠っていた木々や草花が一気に目覚め
辺り一面緑の生気に満ちる
彼らの吐息が風に乗り
春を告げてまわっていた
あちらこちらで咲く花の
蜜を集めて回る蜜蜂
窓越しに少し見つめ合う
素晴らしい毛皮をお持ちで
彼女は少しだけ様子を見て、去っていった
ああ、子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる
みな、心浮き立つ目覚めの春だ
命溢れる美しい季節
猫と畳に寝転んで
日向にあたりながら微睡む
うん、今日もいい日だ。
「春爛漫」
あなたは本当に優しくて、
とてもとても強い心を持った人だった。
必要に駆られて
身につけざるを得なかったものがあったとしても
きっと生まれついての素養が大きかったのだと思う。
けれど、そんな元々強く優しい人が
もっと強く、もっと優しく、と
そうあり方を変えなければならない程に
あなたに降りかかった試練は厳しかったのだ。
私は、あなたが誰よりも優しくて
誰よりも強かったことを知っている。
そして、あなたが誰よりも、ずっと、
苦しんでいた事も。
到底、生きていたいと望めるような
体では、病ではなかった。
それでもあなたに会いに病室に訪れれば
柔らかな微笑みを浮かべて、
うれしそうに迎えてくれた。
人前で、弱音なんて吐かなかった。
自分を見て苦しそうな顔をする人に
そんなこと言えなかったのかもしれない。
言ってしまえばぼろぼろと自分が崩れて
生きていけなくなると恐れたからかもしれない。
でも全ては私の妄想で、
真実はあなたが全て煙と共に持って行ってしまった。
そばで寄り添うだけで良かったのか。
きっと、気を遣わせていただろう。
私は、頼れる相手ではなかったのだろうか。
棺の中で、綺麗に死化粧を施され、
穏やかに眠るあなたを見たとき、
後悔とも言えないような、
心残りと罪悪感を感じて
他の皆が泣きながら、頬に触れながら言う
「よく頑張ったね、ありがとうね」
なんて言葉、足も手も口も
凍ったみたいに動かなくて言えなかった。
現実じゃないみたいで、でも現実で、
気がつけば両手を腹の前で震えるほど握りしめていて
視線だけは釘付けで。
意識の私が棒立ちの私を後ろから見ていた。
誰よりも、誰よりもあなたが頑張ったことを
私は知っている。
誰よりも、誰よりもあなたが苦しみを抱えていたことを
私は知っている。
安堵したような、本当に安らかな顔をして
棺に横たわるあなたが忘れられない。
そんなふうに眠るあなたを見たのは、
それが最初で最後だったから。
あなたが私にくれたものは
あまりにも多くて
私があなたにしてあげられたことなんて
ほとんどなかった。
そうだ、私はきっと、“死”に負けたのだ。
私のちっぽけな両手では到底与えることのできぬ
安寧を容易く“死”はあなたにもたらしたのだ。
きっと私は、あなたの救いになりたかった。
誰よりも、ずっと、あなたに光を見た者として。
傲慢で、愚かだ。
でも、真実あなたを愛していたから。
“死”にさえ嫉妬するほどに。
「誰よりも、ずっと」
頭が痛い。
体が冷たい。
遠くで誰かが叫んでいる。
ぼやける目に映るは一面の赤。
水道管が破裂して
水浸しになったコンクリートが熱を奪う。
死ぬのかな、と思った。
死ねなそうだな、とも思った。
すごく眠かったので寝た。
目が覚めた。常夜灯だけが照らす部屋。暗い。
視界の端に点滴の管が見える。5パックたぁ豪勢な。
心電図のやつ地味に痒いな。
そこ迄考えて、ア、死に損なったんだな、と理解した。
ので、ナースコールを押した。
バタバタと走ってくる足音。
名前を聞かれて呼ばれて、
何か色々確認されている。
諸々が終わった時にはもう朝だった。
眠いな。と眠りながら思う。
左手が暖かい。
うっすらと目を開けると、
祈るように両手で比較的無事な左手を握りしめながら
俯く君がいた。座ったまま寝てんなこれ。
泣いた跡がある。
ちょっと可哀想なことをしてしまったかもしれない、
と思った。
でもこの身はなんだか分からないけど
死のうとしても死ねなそうなくらい頑丈だし、
これ迄と同じようにこれからも
死に損ない続けると思うので、
いい加減慣れてくれないかなぁとも思う。
そういえば前にこれを友人に言ったら
すごいドン引きされたのだった。
その後色々言われたけど、結局よくわからなかった。
ので、昔からよく言われるし、恐らく何かしらが
「普通じゃない」事だったんだろうと理解したんだけど、
もしかしたら違うのかな。今度聞いてみよ。
「そんなんじゃいつか愛想尽かされるぞお前……」
そんなことも言ってたっけ?
おかしいの。
自分のものに愛想つかされるも何も無いじゃんね。
ずっと一緒だったんだから、
これからもずっと一緒なのは当然の事では……?
でも普通の人からすると違うみたいなので、
家族にでもなっておけば大丈夫でしょ。
なんか知らんけど家族だと別になるみたいだし。
ほんと変な人たちだよね、普通の人?って。
起きないな、こいつ。
思いついたらすぐやりたいんだけどな。
手がぬくいから、起こすか悩む。
結局ぬくぬくが勝った。
もう一緒に住んでるんだし、
起きたら養子縁組でもしよ。うん、それがいい。
「これからも、ずっと」