凡そ5、6年前のことでしょうか。
クラスの中でも足の速さには定評がありました。
リレーではアンカーに選ばれました。
体育を生業とする父に、
「凄いぞ!」と自分の頭より幾倍も大きな手でわしゃわしゃと撫でられるのが本当に嬉しかったのです。
誰よりも早く走って、ぐんぐん足の回転速度を上げていくのは非常に心地の良いものでありました。
まるで夏の風のような、爽やかさに包まれる感覚は爽快でさえありました。
しかし、あの日。
新幹線に乗って西へ西へと進む兄に別れの言葉1つすら言えませんでした。
春を迎えようとしている私の心では、去っていく大きな兄の背中に投げかける言葉を見つけられなかったのです。
そうこうしているうちに、兄は簡単には会えない距離へと行き、そこで私には想像もつかぬような人間関係を築くのです。
知っている兄の、知らない面に涙したのは兄が家を出て3年がすぎた頃です。
ふと、父に聞いてみました。
「私は、新幹線に追いつけますか?」
父は口角をゆるりとあげて、目を三角に細めて、
「無理に決まっているだろう。」と笑いました。
こちらを指さすその先端が妙に気持ち悪かったのを覚えています。
私は、走るのを辞めました。
あの子は主人公です。
あの子も。あの子も。
自分の人生の主人公です。
スポットライトを浴びて、あの子を引き立てる曲の中、誰もの注目を浴びて笑うのです。
私は、主人公にはなれません。
スポットライトを浴びることなんて、きっと1度もありませんし、私を引き立てる何かなんてどこにだってありません。
私の人生なのに、私以外の誰かが主人公なのです。
だから、私は私が嫌いです。
人並みにも頑張れない。
何も出来ない。
性格だって悪い。
いつも人からの見られ方を気にして、頑張ってるふりだけ上手くなって。
誰よりも脇役。きっと今すぐふっと消えても誰にも気づかれない。
私を思って泣く人なんていない。
そう思って生きてきた20年間は、きっと誰から見ても酷く暗いものでしょうね。
それを本当に寂しいと今更ながら思うのです。
最後の50分が終わった。
終わりのチャイムを合図にすぐに多くの生徒に囲まれる人気者。
入り込む隙はないと分かっているけれど、ただ一言だけ言いたくて。
迷惑になりたくない思いと、話がしたい思いが喧嘩して、どうやら負けたのは前者らしい。
何度も何度も窓の反射で前髪を治して、出てくるのを待っていた。
ぱちり。
生徒の波から逃げるように飛び出してきた先生と目が合う。
はく、と口が動いた。
なにか言いたいのに、これで終わりなんて嫌だと諦めたはずの恋心が疼き出す。
寂しくてたまらないのだと、そばに居たいのだと大きな声で泣きわめく心根にうるさいと包丁を突き立てたのは先生のお陰で少しだけ大人になった私だ。そう、私なのだ。
何も言わない私に、先生はゆっくり口角を上げて、
「来年も頑張って。」なんて。
ひらりと手を振って歩き出すその背中に、行かないで欲しいと抱きつけたらどれだけ良かったことか。
しかし、大人な私はそんなことしない。そんな自分の立場を理解していない子供みたいなこと、絶対にしないのだ。
でも、それでも。
「まだ、子供でいたい。」
細く小さく、まるで葉っぱに乗った雨粒が落ちるくらい小さな音で漏れ出た私の声を、その丸い耳はきちんと拾ってくれたらしい。
丸い目をさらに丸くして、大きな目をさらに大きくして、こちらを見た先生。
すぐにきゅ、っと細めて、くすくす笑って。
「まだまだお前は子供だよ。」
今度こそ、とでも言いたげに歩き出したその背はもう止まってくれはしないみたい。
先生、またね。
お昼時、居間で兄の成功を誇らしげに、自慢げに電話口に向かって話す祖母の声より、小難しい計算式についてゆったり説明するあなたの声の方がいくらか心地が良かった。
冬なのに変に暖かい日差しに照らされて、あなたの声を子守唄に微睡む今は、負けじと自分の娘の結婚相手までを持ち出して自慢話を展開する祖母の友達の声より幾倍も優しかった。
来年はそばにいられない、なんて。
それが寂しくてたまらない、なんて。
口に出せば貴方は笑って
「来年のことは俺にもよく分からない。」なんて。
それは甘くて優しい嘘だと知っているのに、知った上で騙される私はきっと恋に落ちている。
少し冷えた指先で私の髪を撫でた貴方はきっと私が嘘に気づいた上で騙されていることを知ってる。
私の気持ちも、この後の展開も、私たちの未来も全てわかっているのに、なんにも言わないひどいひと。
好きなんて言ってやらない。
全て分かっている貴方に明確な答えなんてくれてやらない。
そうして私の事で頭の中をいっぱいにして、他になんにも考えられなくなって、そうして、そうして。
最後に残ったものを私だけに見せてよ。