「鐘の音」
夏の夕暮れに鐘の音が聞こえる。ひぐらしが共鳴するように鳴き、風情を感じる。
まだ言葉を話せない幼子が、音のする方へ指をさし
「あれはね、お寺の鐘の音だよ。」
と言うと、早く行こうと手を引っ張る。
買ったばかりの甚平を着て、嬉しそうに歩く姿は可愛らしい。
神社が近くなると、今度は祭囃子が聞こえる。
屋台の香ばしい香りや人々の活気ある声
ああ夏だな
「ママおっそーい」
入口で長男が口を尖らせて待っている。夫は浴衣に身を包み息子の手を繋いでいる。
「遅くなってごめんね。さあどこからみようか?」
夏祭りがはじまる。
絵里
「つまらないことでも」
時々、自分の存在がちっぽけでつまらない人間のように思える。子どもは可愛いし親として責任もって育ててるけれど、自分の名前まで「お母さん」になったようだ。皆私の存在覚えてる?家事して育児してそれが当たり前だから、誰かに褒められることも「私」という人間に触れられることもない。まるで透明人間になったみたい…
つまらないことでも聞いてくれたり、笑ってくれる人いないかな?私はここにいるよ
絵里
目を覚ますと隣りにあなたがいた
スヤスヤと心地よい眠りについている
夢じゃなかった
あなたが目を覚ます前に
朝ごはんの支度をしよう
絵里
「病室」
あとどのくらい生きられるのだろうか?
病室の窓から見えるオレンジ色の空を眺めながら、僕は息をはいた。
そんなに長くないことは分かっているし、妻や息子は僕を悲しませまいと明るく振る舞っているのが、とてもツラい。いっそ、この悲しみを早く終わらせてしまいたい気持ちになる。
コンコン
病室の扉を叩く音とともに、懐かしい香りが鼻をついた。
「やっほー久しぶり!」
黄色ガーベラの花束からひょっこり顔を出した1人の女性。その変わらない風貌にすぐに気がついた。
「奈緒子じゃないか!どうしてここに?」
「飲みに行きたいなと思って連絡しても、スマホは繋がらないから家に行ったらここにいるって聞いて。元気そうじゃん!」
「おいおい…変わらないな、奈緒子も」
見るからに元気ないのは分かってるはずだけど、こういう感じが彼女らしくて、微笑ましかった。
花瓶にガーベラを生けて10数年ぶりに、思い出話しに花が咲いた。あの頃は…僕も編集者としてバリバリ働いてて同僚の彼女とも、たびたび衝突したけど充実してたよな。それよりなにより彼女は…奈緒子は
「どうしたの?狐につままれたような顔して」
フフっと笑う
「え?いや、奈緒子があまりにも変わらないから歳とってないんじゃないかと思ってさ(笑)」
「何言ってんの(笑)」
笑ってる奈緒子がキラキラと輝いていた。
窓から風が入りカーテンが揺れる。久しぶりにたくさんはなして笑って体力を使ったからか、疲れて眠くなっていた。目の前が白くなり奈緒子の声が遠のいていった…
目を開けると、眼下にはベッドに横たわった僕と、泣き崩れている妻と息子が立っていた。医者が何やら説明している。
僕は死んだのだ
「これからもよろしくね」
「え?」
声のするほうを見ると、奈緒子が立っていた。
僕は驚愕した。
「まさか…奈緒子は」
「そう、そのまさか。私は10年前に交通事故で死んだのよ」
元々若々しいが、彼女の風貌が変わらないのはそのためだった。
黄色いガーベラの香りがする
僕は奈緒子の手をとった
~完~
絵里