太陽のような人。
あの人を一言で表すなら、私はそう答える。
集団の中心人物で、皆を引っ張ってゆく、エネルギーに満ちた人。
私にも手を差し伸べて、その光の内に入れてくれる人。
眩しくて、目を灼かれてしまいそう。
きっとあの人に焦がれたら、蝋の羽は溶けてしまって、
あの人がいない、冷たい世界に戻ることになるのだろう。
0からの一歩は、むつかしい。
何もない0からのスタート、というのはまぁ、最底辺にいるようなものなので伸び代しかないのだが、その"伸び代"はどこまで伸びるか。こればかりは自分次第。
昨日あったやる気が今日も続くのか。明日も明後日も、1週間後も1ヶ月後も1年後も、その先も続くのか。
そんなことを考えたって仕方がないのだけれど、仕方がないことはわかっているのだけれど、どうしたって考えしまうのだ。
そうしてまた、"違うかも"と目を背けるのだ。
同情なんていらないと言うくせに同情はするなんて、なんとあさましい存在だろうか。
勝手に"可哀想だ"と他人のことを下に見て、
勝手に自分より低い位置に置いて、
勝手に安堵と密かな優越感に浸っている。
この文を書いている私も、
勝手に周りを"こうだ"と決め付けて、
勝手に"可哀想なことだ"と憐れんで、
勝手ながら"自分は違うはずだ"と自分を棚に上げる。
なんと憐れ。なんと不憫で、可哀想な存在だろう。
果たしてこの憐憫は、誰に向けたものだろうか?
枯葉、と聞いて最初に思い浮かんだのは『葉っぱのフレディ』であった。春に芽吹き、秋に散る葉っぱのお話。
季節の巡りでいのちの循環を書いたお話。
読んだのはずっと前のはずなのに、こうしてぱっと思い出せたのは何故だろう。季節の巡りと同じように、人間を含めた万物が「変わること(変化)」を、自然なことだと学んだからだろうか。
ガンジーは1日で生まれ変わるが、そうでなくても数多の命はいずれ巡る。循環する。たぶんずっとそうしてきたし、これからもそうであるのだろう。
もう少しで春がくる。そのうち夏がきて、秋になり、冬を越して、また春になる。
そうしてずっと、いのちの循環は続くのだ。
"毎晩眠りにつくたびに、私は死ぬ。
そして翌朝目をさますとき、生まれ変わる。"
"過去をひきずる必要はない、朝目覚めたとき、あなたは新たな人生を歩む"
どちらもガンジーの言葉である。
今日は今日しかないのだから、悔いのないように生きなさい。
今日の責任は今日の私の責任であって、明日の私が責任を感じる必要はありませんよ。
うだうだと悩むクセのある私にそう言い聞かせてくるこの言葉は、救いのような、甘言のような、ゆらゆらと動く天秤のような不明瞭な存在である。ただ同時に、悩んでも悩んでもわからないものを見えないように仕舞う箱のような存在でもある。単純なもので、一度離れて仕舞えばマイナスに寄った気持ちが0になるのは早かった。
だから私は布団の中で、毎晩今日にさよならを告げる。
そして布団の中で、毎朝今日におはようを告げる。