A「なあ、理想郷(ユートピア)って言ったら何を思い浮かべる?」
B「ユートピア?そりゃアレだろ。楽園(エデン)と同じさ。仕事がない、何もしなくてもボーッと暮らせる場所!」
C「そうかな。退屈すぎてつまらないんじゃない?」
B「じゃあお前はなんだよ?」
A「そりゃ酒池肉林!これに限るね」
B「煩悩丸出しだな、周りのことを考えてない」
C「理想だろ?だったら自分だけが永遠に楽しめる世界でいいじゃん。フィクションだし」
A「じゃあ、お前の理想郷に他の人はいないんだな」
B・ C「え?」
A「理想郷は?と聞いたとき、いま一番欲しいものを上げる人は多い。そしてそれを現実と地続きの空間として考える人は少ない。休みが欲しい人は天国、楽園のイメージで『何もしなくていい場所』。自分の欲望が満たされてない人は貴族的な『快楽と淫靡にまみれた世界』」
B「オレたちみたいに?」
A「そう。逆に仕事が楽しくて仕方ない人は『仕事が楽しいからそんなもん要らない』って言ったり、家族が大好きで現実に満たされてる人は『ここが理想郷だよ』なんてことを言う」
C「んーつまり?」
A「『人にはそれぞれ地獄がある』と言った人もいるけど、人にはそれぞれの理想郷があるんだ。そしてみんなそこにはたどり着けないと思っている」
B「まあ理想だからな。理想が現実になったら、もっと上に理想を設定するから?」
A「そう。理想郷は自分が『いま持っていないもの』の象徴だから、そのときどきで変わっていくんだ」
C「ないものねだりなんだね」
A「人それぞれ理想郷が違うってことだけでも知っておきたいよね。その人が何を求めてるかが知れる」
B「それぞれのゴール設定が明確になる、か」
A「そして現実が楽しい人は『理想郷なんか必要ない』って言う。持ってないものを数えないんだ」
C「そんなに達観できないよ」
A「…だからかな。現実を地獄だと思う人が多すぎる」
B「いまの若者に自由やお金がないのは事実だろ」
A「持ってないものに嘆くより、一回持ってるものを数えてみるんだよ。若い人は若さ、年配の人は経験…」
B「虚しくなるだけだ」
C「なんかわかるかも。僕にはこれだけ話せる友達がいる」
A「そうそう、こんなバカ話ができる時間がある」
C「もしかしてここは理想郷?」
B「バーカ。バイト中に何言ってんだ」
…コンビニバイトの夜は長い。
あなたの理想郷は、目の前にあるかもしれません。
「みんな!今日は張り切って行くよー!」
いつにも増して店長が気合の入った号令をかけた。そうか今日はハロウィーン当日だ。この日のために私は【バイト募集】の貼り紙を書いたんだ。おかげでたくさんの新しい仲間が加わった。振り返ればあの羞恥心も懐かしい…。いや、いまだに恨めしい。
「えー、あの貼り紙、ヤマノさんが書いたんですか?あたしアレ見て応募したんですよ!」
仕事前に談笑していたら大学生のフジサキさんから告げられた。ウソだろ。いまどき求人サイトから以外で応募なんかあるんか?
「なんで?家近いの?」
家の近所でバイト探すなんて考えられんけどな。知り合いに絶対見られたくない。
「前のバイト先がこの通りの向こうで、行き帰りで通ってたんです。フインキよさそうなお店だなぁって思ってて」
雰囲気な。いちいち訂正せんけどな大学生。私が面接したら落とすよ。
「同じ駅でバイト鞍替えしたの?」
「クラガエ?前のバイトは辞めてきました。なんかギスギスしてて、こっちの方が楽しそうだったんで」
カジュアルな生き方。うらやましいわ。
「はい!みなさん!今日は仮装してきたお子様たちにお菓子を配りますよ〜」
お店では商品とは別にクッキーやらチョコレートやらを用意していた。ちびっ子たちにお菓子を配る商店街のイベントにこの店も参加している。
「はい一緒に来たお父さんお母さんには、必ずこのクーポン券!50円OFFのクーポン券を渡してください!それでお時間あるようなら中入ってもらって、お買い物もしてもらいましょう」
店長はちゃんと商売人である。川越の地に根ざして30年。Boulangerie Joyeuse(ブーランジェリー ジュワユーズ)は地元で人気のパン屋さんだ。
それだけに、今回のハロウィーンイベントには一つ懸念があった。
「ぶーらんじゅ…じぇ‥り、じゅじゃ、じゅやいーしゅさん、トリックオアトリート!」
この店の前に来た子どもたちのテンションが一様に下がっていく。商店街の決めたルールで、お菓子をもらう子たちは必ずお店の名前を言ってから「トリックオアトリート」と叫ぶことになっていた。街の人にお店に興味を持ってもらいたいという計らいなのだろうが、ウチのお店では裏目に出た。
自分も何度か聞いたことがある。
「店長、このお店の名前、読めないんですけど」
バイト募集の時もつづりを2回間違えた。
今日は店先にデカデカとカタカナで貼り出したが、このフランス語は子どもたちには難易度が高い。言うだけで時間がかかるので、店の前に長蛇の列ができている。それを見て敬遠する親御さんもいる始末だ。
「もういいわ、パン屋さん!パン屋さんでいいから!」
見かねた店長が三度号令をかける。店頭の貼り紙は「ブーランジェリー ジュワユーズ」に横線を2本引いて、その上に「パン屋さん」と書き直された。
それからちびっ子の流れもスムーズになり、なんとか目標の集客も達成しお菓子のカゴも空になった。
閉店後、店長はうなだれていた。さすがに店長自慢の30年の看板も形無しだ。
「フランス語なんだけどね。陽気なパン屋さんって意味なの。でも商店街の方もいつも『パン屋さん』としか言ってくれないのよね。名前、変えようかしら」
バイトの私に言われたぐらいで本気で変えるとは思わないが、ちょっと遊んでみようという気になった。
「普通にベーカリーを入れた方がいいと思うんですよね。フランス語よりまだなじみあるでしょ」
店長は閃いたとばかりに目を大きく開けてこちらを向いた。
「じゃあ!『BAKE 川越 BAKE』は?」
「店長、それだけはやめましょう」
店長はやっぱり陽気なパン屋さんだった。
2024/10/26「友達」のお話のもう一つの物語として
だめだ、昨日のことが頭から離れない。
起き抜けのカフェオレを飲みながら、また昨晩のやりとり思い出していた。寝室は別だから寝る時に顔を合わせることはなかったが、向こうが起きて来たらちゃんと話せるか不安だ。
カナデが急にあんなこと言うもんだから。思わず家族だなんて…。いきなり言って引かれてないか心配だったけど、あいつはやたら喜んでくれたな。
「友達だと思ってる?」って、一緒に住んでて今更なにを言ってるんだと思ったけど、カナデは気になってしまったことは聞かずにはいられない性格なんだよな。ちょっと子どもみたいだ。
日曜日だし、しばらく起きてこないだろう。先に朝食を作っておくか。
…あいつ、家事を私に任せすぎてるって自覚あったんだ。ちょっとからかっただけなんだけどな。かわいかったな。自分は家事全般を楽しんでやれるからなんとも思わない。むしろ一人でいるより世話を焼ける相手がいる方が張り切ってやれる。だからカナデが居てくれるだけで生活にハリが出る。
こういうことも言ってあげた方がいいのかな。ちゃんと言い合うのもルームシェアを続けるには必要なことかも。でも口にするのは恥ずかしいし。
両手を顔に当てて伏せる。また恥ずかしさが込み上げてきた。
んんー、にしても家族は言いすぎたかな。向こうが親友って言うから、なんかこう、負けてられないみたいに思っちゃったんだよな。恥ずかしかったな。
「どうしたの?」
え!?びくっとなって顔を上げる。カナデがあくびしながら立っていた。
「起きるの早いな」
「へへ、朝ごはん作ろうと思って」
カナデも昨日のこと気にしてるのかな。いいのに。
「そっか、じゃあお願いしようかな。カナデの料理、楽しみ」
思ってることは言っておかないと。うん。
「やー!朝ごはんでそんな期待しないで!」
なんだかんだ私より凝った料理を出してくるところがズルいんだよな。ちゃんと器用だし、ちゃんと研究するタイプ。
「ねえ、昨日の話、あれ、お互い忘れない?」
ワンナイト後のカップルみたいな言い回しになってしまった。
「え?やだやだ、なんでそんなこと言うの!せっかくファミリーになったのに!」
こいつ“ファミリー”気に入ってるな。
「パートナーもだいぶ恥ずかしいけどな」
「あ、ひどい!いいじゃん、パートナーでファミリーで、無敵のコンビだよ!」
また熱くなってきた。こいつ全然否定しないじゃん。どんどん恥ずかしくなるだけだ。あっ。
「わかったから。玉子焼き焦げるよ」
「あーもう!ナオのせいだからねー!」
出来上がった玉子焼きはちゃんとおいしかった。
押入れの暗がりから発掘されたのは、ハカマダ堂の紙袋だった。フリマアプリで売れば値段がつく。しかしこれは一体いつ誰からもらったものだろう。何をもらったのかも覚えていない。
私の家族にデパートに行くような人はいない。物を定価で買おうなどという文化はデフレとともに捨ててきた世代だ。あ、いや世代のせいにしてはいけない。育ちのせいだ。
いくら私の家族とて、贈り物ならそんなケチなことを考えないだろう。ならば家族の誰か?そもそも私にお祝いの場面など数えるほどしかないはずだ。
違う、私は押入れの整理をしているんだ。手を止めてはいけない。考えながらカゴの中を漁る。
手に取ったのは肩から掛ける小さなポシェットだった。これは新卒で入社した総合スーパーで使っていたものだ。すぐに配属された売場が食品ではなかったからエプロンが支給されなかった。品出しで使うカッターやらペンやらを入れておくのに便利だと先輩のパートさんに勧められて購入したんだ。
確かに便利だったけど、そのスーパーは1年半で辞めてしまった。いま思えば、あの会社にとって売上が伸びるような時期じゃなかったのに、暗がりの中で売上に必死にしがみつこうとしていた。誰が見ても社員は疲弊していた。一年目の私にはできることはなかった。
となればこのカゴは2010年代初頭の出土品が発掘される地層ということになる。つまりは私にとって大学卒業からの数年間だ。ならばあの紙袋は卒業祝いか就職祝い。
…もしかしてそれもこの箱の中に入ってる?さすがに人からもらったお祝いの品をガラクタとともに押入れにしまい込むような恩知らずではないだろう、この部屋の住人は。
倒置法で自分を追い込んだところで、カゴの底の方で小さい箱の感触があった。UFOキャッチャーのごときおぼつかない手つきで引き上げると、それは万年筆の箱だった。
あった。これだ。
すべてを思い出した。これは就職祝いに親戚の伯父さんから贈られた万年筆だ。彼は海外に赴任した経験もある本物のビジネスマンで、帰国の際は私の実家によく立ち寄って土産話をしてくれたものだ。子どもの私は内心では伯父の自慢話に退屈しながらも、その後に出てくるお土産のチョコレイトを期待して興味津々の体で話を聞いていた。
その伯父さんがくれた万年筆は、国内最高級ブランド航海館の品だった。
化粧箱はスライド式だ。引き出すと金色のメッキで縁取られた紺色の軸が見て取れる。この部屋の住人は少なくとも万年筆を裸で投げ入れるような恩知らずではなかったらしい。隣にはコンバーター。ん?いや、そもそも使ってすらいない…!
押入れはタイムカプセルだ。あの日の思い出をあの日のまま保管している。
万年筆って、使い始めるの勇気いるよね。
通されたのはこぢんまりとした事務所だった。雑然としたデスクの奥にちょこんと応接セットが置かれていた。
「あら、お茶をお出ししなくちゃね。何かリクエストはあります?」
「あ、お構いなく」
「じゃあ、お紅茶でよろしいかしら?」
女性社長はそう言って返事も待たずに給湯室へと消えていった。
「あ、い、いただきます」
このお客様に営業に来るのは初めてだ。今日はいい印象を持って覚えてもらえればいい。本格的な商談は次に来るときでいいぐらいに思っている。
待っていると紅茶の香りが漂ってくる。
…。オレ、紅茶 苦手なんだよな。いきなり「紅茶はちょっと」とか言っちゃったら角が立つかなぁとか思って「いただきます」なんて言っちゃったけど、どうしようかなぁ。商談だし、ひと口だけいただいて、そのままにしてても不自然じゃないよな。
「お待たせ。いま入れるわね」
社長は空のカップと中身が見える透明なティーポットをお盆に乗せてやってきた。中には茶色…いや紅茶色の液体が波打っている。
「あ、そんなわざわざ、ありがとうございます」
社長は片手でカップを持ち、もう一方の手でティーポットを持ったかと思うと、ティーポットを大上段に構えて傾けた。紅茶色の紅茶は滝のように落ちてきてカップの中に激しい音とともに吸い込まれていく。
あ、ああ、あああ、杉下右京のやつだぁー!!
え、これ普通なの?紅茶飲む人って毎回これやってるの?それともデモンストレーションみたいに来客が来たらやってくれる人なのかな。これリアクションどう取ればいいの?
「どうぞ、召し上がれ」
「あ、どうも。その、本格的なんですね」
「あらやだ。ちょっと張り切っちゃったわ」
セーフか?これで合ってるか?とりあえず機嫌は損ねてないよな。
「温かいうちにどうぞ」
やば、催促された。さすがに飲まなきゃだよな。よし。
紅茶の香りが部屋中に充満している。私は堪能しているように見えるようにゆっくりとひと口いただいた。
うん。好きな人が飲んだら美味しいんだろう香り高くしっかりと味がする。だがそれが口に合わない。
「あ、たいへん香りの良いお味ですね、さっそくですが弊社のサービスについてお話を…」
顔に出てないかな。大丈夫かな。ボロが出る前に商談を進めないと。
「あらいけない。砂糖やミルクはいります?私がいつもストレートだから忘れてたわ」
何も入れないのをストレートって言うのか。ブラックって言いそうになった。
「あ、や、ストレートで」
「そう。じゃあ、説明していただこうかしら」
この人、紅茶飲ませたいだけなのかな。
「それではサービスの説明をさせていただきます…」
私は自社製品とサポート体制についてひと通り説明を終えた。そろそろアポイントの時間も終わる。
「ひとつ、よろしいかしら?」
質問?てことはウチのサービスに興味を持っていただけたのか?
「あなた、お紅茶にひと口しか手をつけてないわね」
いや紅茶そんなに気になる?しかもやっぱりバレてた?
「あ、説明に夢中になってしまって、すみません」
「あなたもしかして、お紅茶はお嫌いですか?」
いきなり図星を突かれてハッとなる。
「いえ、そんなことは…」
「だってそうじゃありませんか。私がお紅茶を持って現れたとき、あなたは銘柄すら聞かなかった。そしてティーポットから紅茶を注ぐ時も、あんな注ぎ方をしたら、普通はもっと引きます」
引いて良かったんかい!いやそれより、オレが紅茶嫌いだったとてなんなんだよ。別にいいじゃん。
「その時に私、気づいたんです。この人は紅茶が嫌いだと。そう考えるとすべての辻褄が合うんです。私はわざとミルクも砂糖も用意しないでお紅茶のみをお出ししたのに、何も不思議がることなく口を付けた。もしあなたが紅茶好きなら、私が何も用意していないことそのものに不審がるはずです。ええ、まさに今のあなたのように」
え?オレ?
「あなたはいま、私に対してこう思っているはずです。あなたの会社のサービスについて、散々説明したのに、この人は、自分が触れていないことに何故質問して来ないのか。その出方によっては、これ以降の営業の仕方も考えなければならない、と」
「そ、そんなことは…」
「もうお分かりですね?あなたのサービスに興味を持っていればすぐにでも私が質問しなければならないこと、それは、そのサービスの値段です」
その通りだった。私は商談の間、一度もこのサービスの価格を口にしていない。まさに社長の言う通り、価格に関する質問がなければ興味を持っていないと判断し、営業を中止するか、より強く営業をかけるかを考え直さなければならない。
ただ、いまオレが考えているのはそんなことではなかった。
この人、この人…
この人、杉下右京みたいな人だぁ〜!!