『伝えたい』
幸せは留めておけないよ
流動するから
不幸も留まらないよ
流動するから
無理に留めておいたって
いいことないって
出たら帰ってくるから、
怖がらずに送り出そう
『この場所で』
線路沿いの古いビルの4階に、その稽古場はあった。
「ヨガをしてみたいんですけど、誰か良い先生を知りませんか?」
返事を特に期待しない、たわいない世間話だった。
「ああ、それならいい先生を紹介できるよ」
バイト先の先輩の反応は予想に反するものだった。
お洒落な雑貨屋、古本屋、小さな劇場などが立ち並ぶ、文化的な街の一角にある古いビル。そのビルの狭い螺旋階段を4階まで一気に登り、荒い息を整え、先頭の先輩が重たい鉄のドアのノブを回す。
「ガチャ、キィ…」という重たそうな音を立ててドアが開くと、最初に目に止まったのは、年配の眼光鋭い小柄な女性だった。
きっと先生だ。
浅黒い肌に、細くてしなやかな体、圧力を感じる大きな目。ひと目見て只者ではないと思った。
次に目に飛び込んだのは、前後の壁に張られた一面の鏡。
知らない世界に迷い込んだ、アリスにでもなった気分だ。
「おはようございます。こちら見学の子です」
「朝でも夜でも、その日最初の挨拶はおはようなんだ」
先輩が教えてくれたので、私も同じように挨拶する。
続けて先輩が簡単に私を紹介した。
「そう」
先生は、ただそれだけ言って頷き、外国製の変わった香りの煙草をくゆらせた。
緊張する。
すれ違いざま、煙草の煙に混じって先生の体から白檀の匂いがした。
観察されている。
全てを見透かすような眼差し。
自信のない私は、自分が小さくなるのを感じた。
「彼女は……」
「いえ、違うと思います」
先生と先輩が何か話している。
詳しくは分からないが、なんとなく私の格好について話していることは伝わった。
その日、私は1枚の布を巻きスカートとして身に付けていた。
そんなに怪しい格好で来てしまっただろうか。
いたたまれない。
不釣り合いだろ、私。
今すぐにでも帰りたかった。
しかし先輩に紹介してもらった手前、見学だけはさせてもらう事にした。
「よかったら稽古に参加して」
先生の計らいで、私は他の生徒たちに混じって、ヨガのお稽古に参加することになった。
お稽古は体の扱い方に関する私の知りたい内容が詰まっていた。
教室に俄然興味が湧いてきた。
しかし、稽古の後半が踊りだと聞いて、絶句した。実はここはバリ舞踏の教室で、ヨガはその体作りのためにやっているとの事だった。
ヨガ教室じゃないじゃん。
バリ舞踏教室じゃん。
心の中で叫んだ。
そして踊りの稽古着を見て、二度絶句。
私のこの日の服装は、まるで踊りの稽古着を模したものだった。
私は、厚かましくも踊りの稽古に誘ってくれと催促せんばかりの格好で見学に訪れたのだった。
「せっかくそんな格好で来たなら、踊りも参加していきなよ」
先生は気さくに誘ってくれたが、私は顔から火が出るほど恥ずかしい気持ちで踊りのお稽古を辞退して、見学だけさせてもらったのだった。
その後散々迷ったものの、私は踊りのお稽古を断って、ヨガの教室だけ通うことにした。
しかし結局一年も立たずに、踊りのお稽古も始めることになり、ずるずるとその奥深さに引き込まれていった。
「踊りは恐ろしいものだよ。隠そうと思ってもその人の本性が出てしまう。ドロドロした汚いものを見せて踊りだなんて威張ってはいけない」
先生の稽古は感覚的で、形より本質を追求するものだった。
お稽古はとても厳しく、未熟な私には耐え難いほど辛かった。
いろんな経験をさせてもらったあの場所は、先生が永眠して、もうなくなってしまった。
でも、電車の窓からあの稽古場の近くを眺めるたびに、喜びと悲しみが入り混じったような懐かしい感情がよみがえってきて、きゅっと胸が締め付けられる。
『誰もがみんな』
誰もがみんな、自分の経験を通して外の世界を観察している。
だから、同じ時間と空間に存在しながらも、違う世界に生きている。
無数の違う世界が複合的に重なり合って、この世は成り立っている。
花束
梅の花が見頃となっている。
紅梅、白梅、蝋梅。
目の楽しみはもとより。
木の近くを通る時は、良い風を期待する。
芳香をこちらに運ぶ、絶妙の向きの優しい風。
かぐわしい梅の香を感じた日は、ちょっと幸せを感じる。
春は良い。
街全体が花束みたいだ。
スマイル
君の笑顔はやっぱり特別だ。
君が笑うと、みんなつられて笑い転げてしまう。
私の人生の中で、この瞬間が一番平穏で美しい時間かもしれない。