アヤメ所長

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9/4/2022, 5:10:59 PM

雨の騒がしい音で目を覚ました。薄暗く、雨音しか響かない部屋で俺は低気圧の頭痛を抱えながらベッドから起き上がった。タバコを口にくわえ、ライターで火をつける。吐き出す煙と共に、自分の中から何かが消えていくような感覚を覚える。

ー何年吸っても慣れないな。

そんなことを思いながらテレビをつけた。天気予報によれば今週はずっと雨が続くみたいだ。憂鬱な天気とは裏腹に、テレビの中の天気予報士は雲一つもない晴天のような笑顔を見せていた。コーヒーとトーストだけの簡単な朝食を取り外に行く用事もないのに身嗜みを整えた。鏡を見ると重ねた年齢が顔に滲み出ている。目の下にクマが浮かび、口元にはほうれい線が浮かんでいる。顔を洗い、歯を磨くと頭がだんだん冴えて来る。寝室兼仕事部屋に戻ると、出版社から執筆の進捗はどうか、次回の打合せの内容などのメールが届いていた。コーヒーを飲みながらメールに返事を送る。俺は書きかけの文章のデータを引っ張り出すと、思いつく言葉で無彩色の空間を文字で埋め尽くしていく。仕事は作家で、たまたま出した俺の小説が当たり一躍時の人となった。ただそれだけだった。重版の声もかからず、初めて書いた小説も今や古本屋で見掛けるようになった。悔しい、という感情は不思議と湧かなかった。こんなもんか、そう思った。

「先生、今書いているページだけでも見せていただけませんか?」

俺の担当編集がいつだかそんなことを言っていた。書いているも何も、続きが思いつかなくなった物書きなど誰が必要とするだろう。そういうと、

「少なくとも僕は先生の続きを待ってますよ。」

と言われた。

「まぁ、そのうち書くからもう少し待っててくれないか夏樹君」

夏樹萩斗は俺の小説を読んで出版社に就職したという変わり者の青年だ。若くて眩しい笑顔を見せる。テレビの天気予報士と同じように雲一つないような晴れやかな笑顔。もう何年笑っていないだろう。文章を打ち込みながらそんなことを思った。ある日、自分の部屋で打ち合わせをしていると、夏樹君がこんなことを言い出した。

「先生、僕来週で先生の担当を辞める事になったんです。」

俺の中で何かが崩れた音がした。

「って言ったってただの部署内異動なんですけどね。別の作家先生を担当してみろみたいなことを編集長に言われまして。」

ニコニコと眩しいきらめくような笑顔で彼はそういった。なんとなくそんな気がしていた。ソワソワと落ち着かない目線と仕種。すっかり冷めきったコーヒーを飲む。温もりも何もなく、そこにあるのは汚れたコーヒーカップの底だった。

「先生、僕は担当を外れても先生の作品を楽しみにしていますから、続きのページ待ってます。」

編集夏樹萩斗としてではなく、ただの俺のファンである夏樹萩斗が笑っいた。

「まぁこんなおっさんに付き合ってくれてありがとうな。」

来月から新しい担当編集が来る、そう言い残して彼は部屋を出た。

「待ってます、かぁ…。」

待っているなら俺は書くしかないだろう。新しくコーヒーを煎れるとパソコンに向かった。

外はすっかり雨があがり、水溜まりがきらめく空を写していた。





<きらめき>

9/2/2022, 12:13:22 PM

ー消えてしまうんだ。

彼はそう言って私を見て笑った。

ー何が消えてしまうの?

私は彼を見て問い掛ける。周りは驚くほど静かで、世界には私と彼の二人っきりなのではと錯覚するくらいだ。

狭い6畳の部屋には私と彼の息遣いが響く。軋むベッド、お互いの汗、お互いの体温が交わるこの部屋で貪るように身体を求める。タバコの匂いが彼の身体から立ち上る。事が終わると、彼は私の頭を撫でながら、

「好きだよ。」

と囁く。これが当たり前みたいに私は彼の胸元に顔を寄せる。この関係が続いてからもうどのくらい経っただろうか。緩やかに訪れる眠気に身をまかせながらぼんやりとそう思う。どうせ朝になれば彼はいなくなってしまうというのに。温もりが消えないようにしがみつく。いけない関係とわかりつつもズルズルとこの関係を続けている私はきっと世間様では最低な女なのだろう。左手の薬指に輝く銀色の指輪を見ながらそう思う。夫とは違う若い身体に溺れて、愛されている実感を持った私は夫には内緒で彼の家に通っている。薄々向こうも気がついているだろう。やたらと余計にスキンシップをとろうとして来る。正直夫はもう男としての魅力を感じなくなってしまった。結婚して10年。子供はいない。私の体質のせいで子供は諦める事にした。それでも私は夫を愛するように努力したし、寄り添おうとした。夫は私を責めるでもなく、子供は授かり物だからと言って私を慰めた。年齢が高くなるにつれ、夫の身体に触れる事が怖くなった。子供がいなくても私達夫婦は円満だと思っていた。

私が夫の携帯を見るまでは、順調に夫婦生活を送れていると思っていた。私にはけっして言った事がないような甘い台詞。それに答えるような「わたし」以外の女の文章。やり取りはだいぶ前からあったようで、私の知らない夫の姿がそこにはあった。見るんじゃなかったと後悔したがもう遅かった。

年下の彼とはパート先で知り合った。彼は社員で独身。まだ家庭を持ったことがないような若くて野心的で真面目な今時の男の子。そんな印象があった。そんな彼と話すきっかけになったのは、よくあるだろう些細な悩み事。夫の事や、仕事の事、本当に些細な悩み事を話した事が切っ掛けだった。こんなおばさんの愚痴を一生懸命聞いてくれる彼に、私はだんだんと「異性」として見るようになった。夫以外に抱いた、初めての感情。これが世間様でいう「不倫」の始まりだったかもしれない。頭では分かっていたけど、心は彼を求めていた。若く逞しい身体に触れるたびに夫への罪悪感と、求められる悦びの間に私はいた。遊びでもいい、また女として求められたいと思っていた私に天罰が下されたのは穏やかで雲一つない秋晴れのことだった。

「離婚しよう」

夫は別の女のところに転がり込むように私から逃げるように居なくなった。そのことを話すと、

「俺達も別れようか」

目の前が真っ暗になった。私の心の灯が消えた音がした。




<心の灯>