またね。
なんて言葉は、好きじゃない。だけど好きだ。
「また」なんて言葉を使っておきながら、もう一度が
ない可能性があるのだから好きじゃない。人は、明日
生きているかどうかさえ不明瞭なのだから。
だけど、「また」と言う言葉を使うのは、もう一度
会えるかもしれないから好きだ。そういう配慮が
感じられるし、無意識だとしても、細かいところまで
澄んでいる人なんだと思うから。
言葉というのは重いもので、同時に軽く鋭い。しかし
「また」と言うだけでも、存在意義や使い方について
考えながら生きるのは多分面白くない。大変だから。
大事な局面やSNSを使う上ではひとつひとつの言葉を
使うのに注意する必要があるとはいえ、リアルでは
そこまで考えずとも良いとも思う。その言葉が届く
のが不特定多数というのは変わりないが、それが届く
人数も聞かせたい相手も違う。
つまり何が言いたいかというと、「場面によって、聞いて欲しい相手に聞かせたい言葉を使おう」ということである。
暗い話は嫌いだ。
でも、泡になってしまいたいと思うことはある。
死にたいとかじゃないんだ。
ただ、泡になって漂っていたいだけなんだ。
人間が水中で呼吸した時に出す泡。
海の生き物の周りに発生する泡。
石鹸を擦ると出る泡。
まぁ、なんでもいい。
一瞬の命でもいいし、何度生まれ変わったっていい。
ただ泡になってみたいだけ、なのだ。
ついに、彼に会いに行けるかもしれない。
いや、まだ当落は出ていないので不確定なのだが。
ただ、せっかく会えるかもしれないタイミングが
バッチリ重なったのだ。逃すわけにはいかない。
8月、君に会いたい。
君を一目見たい。
君の声を、その会場で聞きたい。
夏休みも終盤のころに、会いに行きたいのだ。
ギラギラと太陽みたいに笑う彼が、
夜空に浮かぶ一等星みたいな君が、
眩しくて、目眩がして。
美しくて、目を奪われて。
そんな彼のためなら、
そんな君のためなら、
死んでしまっても構わないと思った。
死んでしまっても構わないと思った。
……本当に?
人生におけるタイミングって重要だ。
逃してしまえば、やり直しってことも有り得る。
タイミングさえ合えば出来ていたことが、出来ない。
そのもどかしさに苦しくなる。悔しくなる。
未だに、そのタイミングは掴めないままでいる。
しかし誰も、このタイミングは掴めないだろう。
この不規則な生を歩む「人間」である限り。