お気に入りだったお人形を捨てる時
手を離すのはどちらだと思う?
宝物だったものがゴミに変わるとき
汚れたのはどちらだと思う?
大人になることは素敵なことよ
愛もお金も両手に余るほど
だけど一人きり目を閉じてしまえば
もう色鮮やかな夢は見えない
大人になることは侘しいことね
ある面では誰もが正しく
またある面では誰もが間違っている
そんな不確かで曖昧なものを
私たちは正義や常識や愛などと名付け
ただ一つの正解を探し続けている
【旅路の果てに】
思えば、長い人生だった。
男は来た道を振り返り、独りごちる。
一番嬉しかったことは?
一番悲しかったことは?
そんな問いがいかに無粋で無意味であるか、男は今、身に沁みて感じている。
人生という旅路の中に、優劣や順位をつけられるものなど何もない。
全てが刹那的で、そのどれもが大切だった。
身に余るような幸福も、耐え難いような悲しみも。
終着点は近い。
その先にはもう、道はない。
ぼんやりと、人影が見える。
あぁ…ようやく、この旅も終わる時が来たのだ。
『久しぶり。待ちくたびれたよ』
少し呆れたように微笑むその笑顔は、あの日から少しも変わっていない。
ずっとここに存在して、今日の日を、待ち続けていたのだ。
『すまない、随分と待たせてしまった』
男は、皺の刻まれた目元を柔らかく細め、微笑んだ。
年月を刻み、頼りなく細くなった男の腕を支えるその指には、真新しい銀の指輪が光っている。
男の指に光る指輪もまた、かつては同じ輝きを放っていたのだろう。
年月は、その恐ろしい力で全てを変えてしまう。
人は老い、草木は枯れ、何もかも朽ちていく。
それでも変わらないものが確かにあることを、今、固く結ばれた二つの手が物語っている。
長い長い旅路の果て、変わらぬ想いだけが、ただ此処に在った。
【逆光】
夕日を背に、君はつぶやいた。
「一つの恋が終わった」
逆光に照らされて、君の表情はよく見えなかった。
だから僕は君が、泣いていると思ったんだ。
あの日の夕日は眩しかった。
君の哀しみも、心の行方も、何もかもぼやけてしまうほど。
夕日を背に、僕はつぶやいた。
「一つの恋が終わった」
逆光に照らされて、僕の表情はよく見えないだろう。
だから君は僕が、笑っていたと思っててほしい。
今日の夕日は眩しかった。
僕の強がりも、心の行方も、何もかもぼやけてしまうほど。
【海の底】
「どうしたの?ぼーっとして」
大きな青い瞳が私の顔を覗き込む。
隣国からやって来たこの美しい女性は、数ヶ月前、沢山の国民が見守る中、私の妻になり、そして我が国の王妃となった女性だ。
その日は、どこもかしこも夜通し宴が行われ、祝いの声が止むことがなかった。
今でも、彼女は時折話題にする。
あんなに祝福されたことは、人生で一度もなかったと。
「いや、何でもない。行こうか」
彼女の細くしなやかな手を取り、庭を散策する。
美しく咲き誇った花々が、甘い香りを漂わせている。
楽しそうにドレスの裾を揺らす彼女とは裏腹に、私はまたも、宙へ視線を彷徨わせた。
そういえば私はあの日も…今のようにどこかぼんやりとした気持ちで、彼女の横に立っていた。
国民の祝福の声も、ざわざわと、まるで遠い波音のようで。
私は、きっと彼女を愛していない。
『愛』というものを考える時、なぜか私の頭の中には、見知らぬ光景が浮かぶのだ。
ゆらゆらと揺れる水面、海鳥の鳴き声、潮風に靡く金色の髪、美しい歌声。
誰かに話せるはずもない。
彼女と結ばれるその瞬間でさえ、私は見たこともないはずの海の世界に思いを馳せ、心ここにあらずだったのだから。
私を海の底から引き上げた、あの白魚のような手は誰だったのか。
海の底で確かに聞いた、あの美しい歌声は。
忘れられないのに、はっきりと思い出せない。
あの優しい歌声、風に揺れていた金色の髪、冷たい手、その長い足は…
「ほら、バラが綺麗ですよ」
ふっと意識が現実に戻り、私は彼女に微笑みかける。
むせ返るような薔薇の香りが、ぼんやりとした記憶を、砂のようにさらっていく。
いずれ、全て思い出せなくなってしまうのだろう。
あの声も、髪も、手も。
泡のようにパチンと、弾けて消えてしまうのだろう。
暗く深い、海の底へ。