介護職をしています
施設には軽度重度問わず、認知症の利用者でいっぱいです。
介護歴が長い方ほど、認知症は一意に「悪いこと」という認識ではない、という認識になっていると感じます。例えば服を裏返しに着てしまうこと、表裏に着てしまうこと
こういったことは「服を正しく着ることからの開放」
例えば昼夜帯の混同
これは「時間感覚からの開放」
といったように、認知症は様々なものからの開放、といった認識です。
長い時間をかけて積み重ねてきた荷物 言い換えて、これまでの人生で囚われてきたもの(時間や常識、なにかを覚えるといった感覚でさえ)
これらを下ろしていく過程、自分にかけられていた枷を外していく過程
これが認知症だよね、と感じます。
でも、考えてみれば「服を着る」という考えは残っているんです。例え裏返しであろうと、服は着るもの、着ないと恥ずかしいという概念は染み付いている(認知症の進行によってはこの考えも薄れてゆきます)。だって本人はそれでいいと思ってるんです。合っている、正しく服を着れている、と思っているんです。個人主義である現在、言ってしまえばそれで良いじゃないですか。本人が満足しているならそれでいいじゃないですか。
でも世間はそうじゃない。服は裏返しせず正しく着るものだという常識があります。なにも間違っていない。正しすぎるほどに正しい。
我々の仕事はそういった「裏返し」を直す、または「それ裏返ってますよ」と声を掛け、ちょっとだけ世間と合わせてあげる。
介護ってそういった仕事なのかな、と思っています。
上段落の言葉を使うと、我々の仕事は「開放されたものと世間とのズレを修正する」というのが正しいのかな。
以上、個人の見解でした。必ずしも正しいわけではないのであしからず。
久しぶりに長めに文章書いて疲れた😫
みわたす
たかいところから
俯瞰的に
すうっと世界が明るく暗く
光って見える
はばたく
たかいところから
遠い場所に
まわりの風が強く、弱く
吹いている
もうお題がかっこいいじゃん!!私たちが書く必要があるか!?一応書くけどさ!
旅の終わりには
必ず後悔を作るようにしている
次来るときの楽しみに
ただいま、と言えるように
友との別れには
必ず「またね」という
もういちど会えるように
もう会えないと思われないように
世界が「またね」で溢れますように
世界が「ただいま」に染まりますように
距離はいつも同じはずなのに
高くなったり
低くなったり
昨日と同じはずなのに
明るくなったり
くすんだり
気難しいな
俺があいつを見ている限り
あいつもこちらを覗いている
少し離れてみる
あいつはちょっと小さくなって
なんとなく そう、なんとなく寂しい
あいつは俺のこと知っているのかな
これまで
これから
俺はお前を知っているぞ
少しだけ うん、少し嬉しい
あいつはもっと小さくなって
ふりかえってみる
お前はもういない
お前はもういない