※心中表現
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「もうそろそろかな」
囁くような声が一足先に風に乗る。
揺れる髪をそっと押さえて、まっすぐ前だけを見ていた。
「思ったより長かったね」
「まあ夏だからね………あ! 此処からうち見えるよ!」
「ほんとだ。あれ、電気ついてんじゃん」
「え、うそ。電気代大変なことになるなあこりゃ」
「今月もギリギリなのにね」
「大丈夫? ほかに忘れ物してない?」
「んー……あ、洗濯機回しっぱなしかも」
「それがねぇ、あいつは賢いから自動で止まるんよ」
「電気は賢くないの?」
「そうそう、あの子はぜんっぜんダメ。そこも可愛いけど」
気づけば夕陽の一片が地平線に溶けようとしている。
そんなことよりさ、と君は微笑った。
「これでさいごだよ」
『もし今日夕陽が沈み切ったら、一緒に死んじゃおうよ』
数時間前、君はあっけらかんと言ってのけた。
まるで「コンビニ行こうよ」みたいなテンションで言うものだから、何も考えずに承諾しかけてしまった。少しして死んじゃおうの意味に気づいた僕に、なに驚いてんのって君は笑ってたけど、なにしろ心中のお誘いは初めてだったから。
ぐるぐると思考回路が渦巻いた。死ぬのは痛いだろう。とても怖いだろう。出来ればまだ経験したくない。だけど君はそれを望んだ。どこまでも明るく、楽しげに。
だけどよく考えてみたところで答えは同じなわけで。いつもとなんら変わりない君に、いつも通りいいよと笑いかけた。
「はぁー、太陽ともこれでさよならかぁ」
うーんと伸びをして、フェンスにそっと触れる。
夕陽の残光のみが僕らを照らしていた。
「電気は諦めるかな……」
「どうせ払えないんだからいんじゃない?」
「いやさぁ、これは気持ち的な問題なんよ」
「おぉ、どういう?」
「電気消し忘れてる! どうしようソワソワ……みたいな」
「なにそれ」
「……待って、テレビ消したっけ?」
「あー、消してないかも」
「うわぁ〜、またお隣さんに文句言われる〜!」
どれだけこの先の展開を意識しても、会話はこの日常の続きを描いている。それが虚しくて仕方がないこと、必死に隠して笑顔を作る。
賞味期限が明日切れるパンのこと、駅前の駄菓子屋が小さくて可愛いこと、小学生に挨拶されたこと、お隣さんにタッパー返してないこと、使ってないクーポンのこと。
ふと、他愛ない会話が途切れる。
夕陽が沈んだ。
「……後悔、してない?」
「僕が後悔するとでも?」
「ふふ、君は私がだーい好きだもんね」
振り返ることなく君は笑う。
その時初めて、君の声音が震えて聞こえた。
「ねえ、こっち向いてよ」
「やあだ」
「どうして?」
「……いまね、ひっどい顔してるからいやなの」
だからちょっとだけね。
君は少しだけ振り返った。頬を伝う涙もそのままに。
じゃあね、バイバイと世界に手を振る。
僕らは手を取りあって、風に乗った。
柔い陽光が目に染みる。
ガラスを隔てた向こう側には羽を休める小鳥。
かわいい子、と口元が微笑みをかたちづくる。
目が覚めるといつも違う寝床。隣に誰かがいたり、いなかったり。瞼を持ち上げる瞬間の微かな期待と、それを裏切る痛みとともに朝を迎える。徐々に迫り上がってくる不快感が、昨日の私はまた同じ罪をおかしたのだと告げる。
遊びではなくこれが仕事。好き嫌いは許されない。いまさら拒否することもできない。だけど難しいことではない。ただこの仕事を好いて、誰かの愛に沈めばいい。従順にしていれば、それ相応に優しくしてくれる。もっとと強請れば、欲しい言葉もくれる。この世界はなんだかんだ私に甘い。だから私はこの仕事が嫌いじゃない。
だけど、もう少しだけ、わがままを言っていいのなら。
「私、子どものままでいたかったな」
どこまでも純で、求めずとも愛を注がれる存在のまま。
私はたったひとりだけと愛に溺れたい。
なんてね。私って、案外ロマンチストでしょう?
隣に眠る誰かに口づけを落とす。昨夜はそれなりに気持ちよかったから特別だ。
そっとベッドから降り、私はまた罪のもとへ向かう。
さぁて、今日は誰に愛されるのかな。