「台風一過」と聞いて「台風一家」を思う人は多いが、「入道雲」はどうだろう。
「にゅうどうぐも」と呼ばれる大きな雲は、入道がお坊さんと同義なことも、大入道という妖怪のことも知らなかったた子どものわたしにとっては、絵の具がチューブから「にゅう」っと出る感じと、その後「どぅ」っと夕立になるのとセットで脳内にイメージされていた。
「積乱雲」なんて言われるとなんだかカッコ良すぎて「にゅう」っ「どぅ」っという湿気を含んだ夏の躍動感がリアルじゃない気がする。
同時期の記憶に「怖いワンマンバス」というのがあった。今はもう乗車員が運転手さん1人なのが当たり前になって(昔は車掌さんも同乗していた)その表示を見ることも少ないが、当時「ワンマン社長」という言葉を「思うがままに振る舞う独裁者」といったイメージで学習していたわたし。
「ワンマンバス」と書かれたバスは強面の運転手さん(ごめんなさい)による独裁下におかれた恐ろしい乗り物に思われ、なんでそんな怖いことを堂々と表示するんだ、誰も乗りたがらないよ?と子ども心にバス会社のマーケティング戦略に疑問を抱いていた。
昔も今も、子どもが耳から聴き覚えた勘違い言葉は日々生まれていて、「台風一家」や「お食事券」「重いコンダーラ」「謝って発砲」は定番だが、ひょっとしてどなたか収集整理なさってるかもしれない…集大成があったら笑ったり感心したりで堪能したいなぁ。
「入道雲」
#150
傾いた地軸で太陽をめぐる地球は
囲炉裏を囲む 串打ちされた魚
相手は何といっても太陽だから
極めつけの強火中の強火
強火の遠火、気長にいくのがいいのに
夏はどうも近火にすぎる
アチチ アチチ
焦げつかないよう自転して
パリッとこんがり焼ける頃には
公転していて もう次の季節
今年も熱いに決まってる
めげずにクルクル
こんがりジリジリ焼かれよう
「夏」
#149
ここではないどこかの崖の上で
わたしは長い髪を風に揺らせている
ここではないどこかの草原で
わたしは馬を疾駆させている
ここではないどこかのわたしは
森の奥深くの小さな赤いきのこであったり
海の底の目の退化した魚であったり
宇宙の遠くのヒト型ではない生命体だったり
そんなことを考えていると
だんだん意識が拡散していって
ここのわたしも粒子になって広がって
ここにいるわたしと
ここではないどこかの全てのものたちは
実はみんな同じひとつかもしれないと
思いはじめる
自分とそれ以外って
どう区切られるものだったろう
「ここではないどこか」
#148
あなたと最後に会った時
それが最後だなんて思わなかった
今日はありがとう、またね
互いにそう言って
またの日があると疑わないで
会者定離 一期一会
サヨナラだけが人生だ
言葉をいくら知っていても
この悲しみは 無念は
何度も味わうものなのか
無常の風は
くるくると回りながら
何度も吹きつけてくる
「君と最後に会った日」
#147
繊細な花だと言われるのは心外
感じやすく 傷つきやすいのは
本来いるべき場所にいないから
わずかな変化 わずかな刺激にも
たちまち弱ってしまう
自分らしくいられなくて
少しずつ 何かしら無理をしながら
わたしに合う場所にいられたら
傷つくことなんか恐れず
ずっとのびのびタフになる
花とすら認識されないくらいに
「繊細な花」
#146