どうですか。落ちた経験はありますか。
受験に落ちる。
穴に落ちる。
段差から落ちる。
木の葉が落ちる。
あ、こんばんは。
私はしがない音楽家。曲の作れない音楽家でございます。
これは、私が出会った数多の喜劇たちのお話。
今日はひとつ、ある姉妹のお話をしよう。
小さな彼女がまた涙を落とさぬよう、どうか見守ってあげておくれ。
舞台は大きな病院。
その大きな病院の一室には、1人の少女が横たわっていた。
その少女の双眸はまるで窶れていて、見ているこちらも良い顔は出来ない。
しかし彼女は笑うのだ。
「___だって、じゃないと“のこり”がもったいないよ」
「残り?」
「うん。のこり。」
「だってせんせいが言ってた。わたしね、“のこり”半年でしんじゃうんだって。」
「病気が悪化したの。」と、幼い彼女は舌っ足らずな日本語で笑った。
まるでそれが当たり前かのように、そうなる事を知っていたかのように。
だから、彼女は「残りの余生」を余すことなく使いたいのだと。
泣いて終わるなんて勿体ないんだと。
「あ!そうだ!ね、おんがくさん。ドアをあけて?そろそろくるの。」
「ウン?ドア?いいけど来るって?…ああ!あのクソガキ!」
「くそがき?ひどい。わたしのかわいい妹なのに!」
時計がちょうど90°の形になる時。
午後15時に、いつもやってくる子供がいる。
アイツはもーーーう本当にクソガキの典型で___
「ちょっと!!!オマエなんで今日もいるのよ!!姉さんから離れて!」
うるせえ。おっと。
先程までの静かで穏やかな空気はどこかへと飛んでいってしまう。
ベッド上の穏やかな少女の顔とそっくりな、もう1人の少女。
__彼女たちは、一卵性双生児なのだ。
「なんでいつもいるのよ。アンタのせいで姉さんが“あっか”したらどうするのよ!」
「ふふ、そんなにすぐ“あっか”しないよ。」
病弱な「姉」と、
元気な「妹」。
対照的な彼女たちは、今日も楽しそうに病室で笑うのだ。
「ねえ!おんがくさん!わたしドナーが見つかったって!っ、げほっ、っぐ、」
「わ、無理しないで。」
胸元を押さえ込んで激しく咳き込んだ彼女を支えながら話に耳を傾ける。
一瞬顔を歪めた彼女はまたニコリと笑って「ありがとう」と一言。
「ごめんね。でも、すごい、うれしい。」
「ね、おんがくさん。わたしね、わたし、もう“のこり”がないんだって。わたし、いきられるって。」
「おんがくさんおんがくさん。そとであそぶって、どんなだろう?大きな声でうたうって、どんなだろう?サッカーってどんな風なるーるなの?さむさ、で、っげほ、もうくるしいは、なくなるのかな?っふ、かふ、も、こんなふうに、ならなくていいのっ?」
そこまで言った彼女はまた大きく咳き込んだ。
彼女の小さな背中をゆっくりと擦りながらその期待に答える。
「ぜーんぶ、君の病気が治れば知ることができるものだ。私に聞くまでも無いんじゃない?」
「……そっか。そうだね。……おんがくさん、ありがとう。びょうきがなおったら、わたしと、いつきと、それからたくさんの友達といっしょに鬼ごっこしようね!」
「ええ。勿論。沢山遊ぼう。あのクソガキも一緒にね」
手術の日程はたったの10日だそうで、今までの生活に比べればへっちゃらなんだとか。
ただ、入院中は家族に会えないからそこだけは辛いのだ。そう言って彼女は寂しそうに笑った。
結果だけお話しよう。
ドナー手術は成功に終わったそうだ。
ただ、彼女は前のようには笑わなくなった。
双子とは、なんとも残酷なものだ。
お互いが自分の半身とも言える双子は、臓器の適正までも半身と言えたようだった。
病弱な彼女が、願いを。
妹と沢山遊びたいのだ、と言えていれば、言うチャンスさえあれば、何かが違ったのだろうか。
全てを知った彼女は何を言うのだろう?
これからを知れることに歓喜するのか。
はたまた、これからに意味が無いことに気づいてしまうのか。
それを知る由は、私には無いけれども。
「……ねえ、おんがくさん。わたし、どうして生きてるんだろう。…………ねえ、なんで。」
小さく開かれた口から、言葉がおちていく。
しずかに、しとりしとりと涙も落としながら。
「なんで、」と静かに呟いた言葉は、果たして誰に向けられたんだか。
私にかもしれないし、病院にかもしれないし、はたまた。
妹にかもしれないし。
まあひとつ確かに言えることは、世界は確かに残酷で、愛情というものはその中でも1等、無慈悲たということ。
ああ、彼女は今も元気に生きているだろうか?
楽しみだったサッカーはできたのかな。
大きな声で歌えているといい。
友達と寄り道なんかして、親と喧嘩して。
それで、また大きな声で笑えていれば、いいけれど。
彼女が繋いでくれた“のこり”を、謳歌してほしい。
曰く、成し遂げんとした志を1度の敗北によって捨ててはいけない。……なんて誰が言ったか。
そんな彼女達には、エリーゼのために。
敬具 あなたたちのおんがくより。
___________
すみません、迷走してしまった。
夫婦と言うと、どんなものを思い浮かべるだろうか。
例えば、家庭。
例えば、男女。
例えば、結婚。
或いは幸せなんかだろうか?逆に、不幸を思う人もいるかもしれない。
一人ひとり思い描く「夫婦」は違うし、いい思いを抱く人も、悪い思いを持つ人だって中にはいるのだ。
だから、「夫婦」なんて言うひとつの熟語だけでは。
その関係性なんて我々他人には計り知れないものだと、貴方は思わないですか?
さて、本題に移る前に自己紹介だけ。
私はしがない音楽家。曲の作れない音楽家だよ。
これは、私が今までに出会った数多の思い出たちとの物語。
今日は、今みたいに寒い冬の時期に出会った1組の夫婦のお話をお伝えしよう。
どうか彼らが悲しまぬよう、しっかりと見届けてあげておくれ。
「ねえ!聞いてらっしゃる?浩二さんったら酷いのよ!」
「勿論。それで?そのー……えと。櫻子様がお花をあげたんですっけ?」
「やっぱりなんにも聞いていないじゃないの!これだから音楽家は変人って言われるんだわ!」
「ははは。そうかもですねぇ。それで?話の続きは?」
「んま!聞いていなかったのは貴方なのに!失礼しちゃうわ。」
___某年 12月。
とある静かな静かな田舎の中心部でその会話は行われていた。
どの時代にもよくある色恋話。ただ少し違うのは、この女が上級階級の生まれだということだろうか。
女の名は櫻子。
彼女が想いを寄せている相手というのは、平民の浩二という男らしい。
あるきっかけで彼女と出会ってから、近頃はひっきりなしに同じような話ばかり聞かされているのだ。
やれ反応が冷たかっただの、やれ贈り物を渡せなかっただの。
音楽に一生をかけている私からしたら、どれも可愛らしくいじらしい話ばかり。
少しばかり、進展という名のスパイスでもなければ飽きてしまうのだ。
そんな私にはお構い無しに年頃の少女は悩ましげに頬杖を付いて息を吐く。
まるで彼女が世界の中心かのような仕草に思わず微笑みを零すが、恐らく彼女はそれにさえ気づかないのだろう。
「もう一度言うけど、浩二さんったら酷いの!彼に会うために目一杯めかしこんだって言うのに、彼なんて言ったと思う!」
「さぁ?なんて言ったんです?」
「何も言わないの!有り得ないわ!もっとこう、…もっと。」
「可愛らしい、くらい言ってくれたっていいじゃない…」と、先程までの威勢をすっかりなくした彼女は俯いた。
乙女心というのはむつかしいもので、どうやら今日は自身の変化に気づいて欲しかったのだという。
暫く俯いていた彼女の傍にある、冷めかけた紅茶をそっとこちら側に下げればそれを追うように彼女の目線も上がる。
そしてまた語り出すのだ。
「………でもね、音楽家。…私聞いたのよ。浩二さんね?」
「今、お金を貯めてるんですって。」
「へえ。そりゃまたなんで?」
この時代だ。貯まるものも貯まらないだろうに。
そんな無慈悲な言葉を飲み込んで言葉の続きを待った。
「___わたしに、プロポーズするために。」
花も恥じらうとはまさにこの事。
今までの元気はつらつな彼女は消え去って、聞き取るのも困難な程に小さな声でそんなことを告げられた。
「ほら、私の家はお金が有るでしょう。でも彼は違う。その、なんて言うのかしら。ちい?かくさ?という物を、彼は気にしているんですって。」
「そんなもの、私は気にしないのにね。」
そう言ってクスリと笑った彼女は心底愛しそうな、それでいて心底嬉しそうに微笑んだ。
それから白魚のように綺麗な傷一つ無い小さな手で顔を覆って言うのだ。
「楽しみだなあ」
「聞いてますか、音楽家のお人!」
「嗚呼、ああ。聞いてますよぅ。お前らは揃いも揃って。」
「だって!あんなに可愛らしいんですよ!吐き出さなければやって行けない!」
ダン!と机に握り拳を叩きつけたのは、まあお察し。こやつがかの「浩二さん」本人である。
彼女が私に話を語るのであれば、彼は私に苦悩をぶつけに来るのだ。
あーあ。私は相談屋でなく音楽家のはずなのに。
まあ、いいですけど。
「……僕ね、金を貯めているんです。…少しでも彼女に、櫻子さんに近づきたい。………でも思うようには行かない」
「そりゃあね。むつかしいでしょう。」
「…それでもです。頑張りたい。一所懸命です。この、変な色の水も有難う御座います。これが有るだけで気持ちの持ちようが変わるんだ」
「それね。紅茶っていうんだよ。何度言えば分かるんだい」
グ、と拳を強く握りながら彼はいつも言うのだ。
まるでここでの宣言が覚悟を決めるための儀式のように。
彼はその「儀式」だけ行ったあと、紅茶を勢いよく飲み干して此処を去っていく。
彼女と違うところと言われればそこだろう。
一方的にベラベラと惚気を聞かせたあと、覚悟を決めて勝手に此処を出ていく。
私は話を聞くだけだから楽だね。
まあ、惚気を聞かせられるのは少し……否、だいぶキツいけど。
はてさて、彼等が祝言をあげることになるのは何時だろうか。
私も見ることが出来ればいいけれど。
「……たのしみだなあ。」
その日、は。あまりにも突然やってくるのだ。
何時もはスキップなんかをして楽しそうにやってくる櫻子が、扉を蹴破る勢いで泣きじゃくりながら此処を尋ねてきた。
そして私にしがみつきながら言うのだ。
「音楽家!!!!!教えなさい、私に教えて!!ねえ、私の家はお金があるのでしょう?権力があるのでしょう!ねえ、だったら、あの人、を、!!!!!」
「落ち着いて。落ち着いてください。何があったの。」
「落ち着いてなんて居られないわ!!時間が無い、じかん、が!あのひと、あの人が戦争に言ってしまう、ぁ、あのっ、っこ、…………こうじ、さん、があ、あ、あぁ…!!!」
_______戦争。
物事は、そう簡単に上手くは行ってくれない。
常々彼が言っていたじゃないか。そりゃあそうでしょう。
聞けば、彼は。浩二に赤紙が来たのだという。
それを彼は最後の最後まで彼女に隠しきり、彼女は。
…櫻子は、浩二が出発したその日に、その事実を知ったのだと。
彼女は未だ溢れる涙を拭いながらも語る。
「私、聞いたのよ。私の家は政府と繋がっていて、徴兵を免れることができるって。だからお兄様もお父様も兵士では無いの。でも、…っでも!…浩二さんは、まだ私の家族では、ないの。………ねえ音楽家、どうしよう、浩二さんが…!」
「しんじゃう」
その日、彼女の涙は留まることを知らずに流れ続けた。
それからまた、数日後。
チリン、と鐘がなる。
扉に目を向ければ、上質な黒い着物を着た奥方がひとり。
その手には見知った顔の映った額がひとつ。
「…もしかして、櫻子さんの。」
「……………櫻子がお世話になったようで。ありがとうございました。」
「いいえ。私も彼女には楽しませて頂きましたよ。…本当に、元気で可愛らしい娘さんだ。」
「ええ。…ほんとうに。いい子に育ってくれて良かった。」
まるで世間話。
此処ではそんな穏やかな空気が流れていた。
一息ついたあと、話を切り出したのは奥方。
「北条櫻子は、先日。……殉死致しました。恐らく、彼を追いかけて。」
ああ、彼女の苗字はこんな風なものだったのか。
頭だけは、結局嫌に冷静なのだ。
まるでこの地獄など知らないような笑顔が眩しいように感じる。
これは、「夫婦」に憧れた悲恋の物語。
___安心。それが人間の最も近くにいる敵である。
そんな彼等には、ロミオとジュリエットを。
敬具 貴方達の音楽家より愛を込めて