一筋の光が差し込むのを見つけ、そこに喜び感動を得るためには、一度空が曇らねばならぬ。
シルバーライニングも、雲がなければ、4つ葉のクローバも、3つ葉のクローバーがなければ、それ自体で喜ばしいものにはなり得ないのだ。
永遠に生きる。
永遠に死んだままでいる。
永遠にその身を捧げる。
永遠に変わり続ける。
永遠に続くものはただ変化ばかり。
永遠の輪廻の内、解脱の光明を求めて。
懐かしく思うことは、しばしば後悔の隣に住んでいる。
左手にカゴを、右手にアルバムを持って一軒一軒ノックして回る。
時折懐かしい思い出が出てくる。そんな時にはひとしきり抱擁をする。いつまでもそうしているわけにはいかないから、後ろ髪を引かれつつ、次へ進む。
唐突に、ノックした扉の後ろから後悔が激しく顔を覗かせる。そんな時、他の家の窓窓も開き、静かに、あるいは激昂して、後悔がこちらに向かって叫んでいるように思われる。
もう後悔なぞしたくないと、思えば思うほどに未来は霧に包まれて、不安は募る。
両手を前に伸ばし、髪は後ろに引かれ、気がつけば今いる場所も定かでない。
......果たして地に足はついているのだろうか?
.......これは私の話だ。つまり、あなたの話だ。
愛言葉というのは、まあ、造語であるだろう。
単なる合言葉なら、「なんてこった」「パンナコッタ」というのがある種友人との合言葉であった。
愛言葉というのは......まず定義しよう。おそらくは「愛し合う関係の人が(暗黙のうちにせよそうでないにせよ)取り決めた合言葉」ということか。
ふむ。
おはよう、といえば、おはよう、と返ってくる。それでいいのではないだろうか。もっと別なのがいい...?特別なの...?当方ではその手のものを取り扱っておりませんので、どうぞ他を当たってご覧なさい......。
声が枯れるまで叫べと言われて、叫ぶほどに馬鹿ではない。いや、ハスキーボイスを目指すならするかもしれないが、何か間違っている気がする。