SIRO

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7/21/2023, 3:01:46 AM

 私の名前はポチです。

 名前とは、その個人や物を表す最も単純で最も効率的な単語です。そうでしょう?

 私の名前はポチです。

 毎日外を走り回り、ご褒美をもらい、夜には家で寝ます。私の姿が見えてきましたか?

 私の名前はポチです。

 おっと、私とあなたの間には理解の乖離がありそうだ。これだけ個人を表すのに最も適した名前を言っているのに。毎日そう呼ばれていますよ。

 私は人間です。会社員で犬のように働いています。

 名前は本当にその個人を表すものですか?



お題:私の名前

7/19/2023, 11:13:50 PM

 妻がまた新しい鏡を買ってきた。すでに家には至るところに鏡があるというのに。妻は鏡を見て言う。

「この鏡、可愛いでしょう。ずっと見ていたいわ」

 思えば妻とは交際当時からちゃんと顔を見た記憶がない。妻が見ているのはいつも鏡だ。
 あるとき僕は妻を問いただした。どうして鏡ばかり見て僕を見てくれないのか、と。妻は言った。

「見てるわよ。今だって」
「鏡の中をね」
「違うわ。だって、大好きなあなたを直接見たら嬉しくって顔が赤くなっちゃうもの。恥ずかしいじゃない」



お題:視線の先には

7/18/2023, 11:58:14 PM

 三十連勤から帰ってきた朝、ベッドで目覚めると世界が一変してしまっていた。街中にゾンビが練り歩いているのだ。映画の撮影などではない。あいつらは襲いかかってくるし、死にものぐるいで私を捕まえて喰らおうとする。

 死んでたまるか。

 私は包丁を手に街を走り、近づいてくるゾンビは片っ端から切り倒していった。だけどゾンビの数はどんどん増し、もはや人間は私しかいないようだ。

 負けるものか。
 私はゾンビどもを切り倒し、会社に行くのだから!

「――本日明け方に都心に現れた通り魔は先ほど警察により逮捕されました。容疑者はゾンビが現れたなど意味不明な発言を繰り返しており、錯乱している状態とのことです。続いては全国のお天気情報です」



お題:私だけ

7/18/2023, 8:50:08 AM

 東京から電車を乗り継いで四時間、久しぶりの田舎の風景は何一つ変わっていなかった。山と田んぼばかりの緑一面。つまらない景色だ。やかましいばかりのセミの声と、都会より多少マシだが焼けるような日差しがホームに降りた私を出迎える。私以外に誰も下車しない駅を出ると今度はセミではなく人の声が私を出迎えた。

「おかえり」
「おう」

 何年ぶりかの妹との会話はそれだけで終わった。狭い軽自動車に乗り込み、他に誰もいない道路を走り出しても、エアコンの利いた車内に会話は生まれなかった。
 妹とは特別不仲というわけでもない。まあ仲が良いとも言いづらいが。ただ、何を話したらいいのかわからなかったのだ。普通の帰省ならば土産話や近況の一つでも語り合っただろう。しかし今回は普通ではないのだ。

 親父が死んだ。
 先日、ガンが進行してそのまま逝ってしまったと、すすり泣くおふくろから連絡を受けた。私は取る物も取りあえず、仕事を打ち切って実家に帰ることとなったのだ。

 働き者の親父だった。仕事も家のことも熱心に取り組んでは自分でやりたがる性分の人だった。私が幼い頃は妹ばかり贔屓にされているような気がしていた。喧嘩すれば必ず私が悪いことにされ、叱られるのはいつも私であった。終いには妹が嘘泣きしても親父は妹の味方であった。だから私は親父があまり好きではなかった。高校を卒業すると同時に家を出て、東京に行ってからはほとんど帰っていない。ガンになってからの見舞いもほとんど行っていない。

 あれよあれよと言う間に葬式が終わり、灰になった親父を骨壷に収めていると、ようやく実感が湧いてきたのか、私は帰ってきて初めて涙を流した。好きではなくても、やはり家族は家族なのだと改めて認識させられた。妹はそんな私を見ようともせず淡々と骨を壺に収めていた。

 そして忌引き休暇の最終日の朝、シャベルを担いだ妹が私に一枚のルーズリーフを渡してくる。そこには親父の字でこう書いてあった。

 俺が死んだら畑のビワの木の下を掘れ。兄妹二人でな。

「なんだこれは」
「遺言でしょ。兄、掘って」
「こんなメモ書きみたいな遺言があるか。ていうか、俺は今日東京に戻んなきゃならないんだよ」
「だからさっさとやるよ」

 仕方なくビワの木の下を掘っていると、すぐに滝のように汗が吹き出てくる。真夏に死んだ親父を恨みつつ、力仕事を嫌がる妹と交代で掘り続けると、アルミでできた汚い箱がでてきた。

 中には汚れたガラクタやオモチャが入っている。よく見ればそれらは妹との喧嘩の原因になったものばかりであった。喧嘩をするたびに親父にオモチャを没収されていたが、まさかこんなところに埋めていたとは思わなかった。箱の中には写真も入っていた。写真の中には幼き日の私と妹が肩を組んで笑い合っていた。

「……嘘泣きしてごめんなさい」

 振り返れば妹が泣いていた。親父が死んでも泣かなかった妹が泣いて謝っている。

 朝から茹だるような暑さの蝉しぐれ。私は汗で濡れた妹の頭を優しくなでてやった。
 妹が泣き止んだあと、私たちは一枚の写真を撮った。その写真を親父の仏壇に添えて私は東京に戻った。私と妹が、あの日のように笑って肩を組む写真を……。



お題:遠い日の記憶