暑さが去って、体がほっと一息つく秋。湿度も下がって呼吸も楽になるし、空気が澄んでくる感じだ。
畑や水田、山の中にも実りが訪れる。夏とは違う活発さが静かに盛り上がる。
月は冴え、星も見えやすくなり、木々の色づきが明るさを放つ。
野の生きもの達も人間も、冬を越えるための支度を始め、空気が涼しくなるほど暮らしに暖かみが増えて来る。
大好きな人にくっつく嬉しさも深くなってくることを、秋晴れの空に想って幸せな気持ちも温度を増す。
今日の晩御飯は何にしようかな。炊ぐ匂い、煮炊きのぬくみ、あなたのまなざし。
豊かな季節 私は幸せ。
忘れたくても忘れられない、そんな記憶はいくつもある。
私は印象強い記憶は捨てられない性質のようだ。
「忘れたくても」であるなら、その記憶は自分の中にネガティブな感情反応を呼び起こすもの、ということになる。当然だが不快で苦しいものになる。
五歳の時に出会った恐怖。越えて楽になりたくて、ひたすら強さを目指した。結果、「対抗しうるかもしれない強さ」を獲得したけれど、恐怖感は消えなかった。恐れるものは来たる。怖いがゆえに、怖いものをいつも絶えず気にしているので、意識の焦点が「怖いもの」にジャストミートし続けてしまうからだ。
「自分が“怖い”と感じているもの」が、どんな要素で成り立っているのか、何故そう感じるのか、実際的な本質は何なのかが、明らかな理解になって腑に落ちたとき、私の恐怖は消えた。そして、恐れなくなったので、私の現実にその恐怖の事象は立ち現れなくなった。
記憶は相変わらず、忘却に沈むわけでもなく私の中にある。
しかし現在のそれは、「不快な苦しみの元」ではなくなり、「歩みの途中のモニュメント」として静かに残っているだけだ。
すべてがそのようになったわけじゃない。まだ「未完了」のものもある。ひとつずつ、根気よく、最良の完了へ向かって進んで行くのみだ。
忘れたいと忌避するわけでもなく、忘れられないと苦しむものでもなく、確かにせいいっぱい生きてきたと思い出して前を見るモニュメントにするために。
枕元に愛情の言葉を
身の内にあなたの熱を
肌身に優しいぬくもりを
悲しみはどこかへ消えて
重かったからだは軽く
やわらかな光に包まれる
新しい心の旅に出るのなら
その旅路をあなたとともに歩きたい
おもわず涙ぐんでしまったら
抱き締めるために飛んで来てくれた
あなたこそが私のレメディ
安らぎと、生きる力を実感できる
あなたの命の響きは
私の世界に顕れたやわらかな光
真剣な、今に集中している眼差しは鋭い。
そんな眼をしているときは、この瞬間に意識の集中力が凝集されている。
何をするにしても、アクションを伴う真剣さを発揮している人の眼差しは鋭いものだ。「気迫」とか、「眼力」とか、表現も複数ある。
今この瞬間に集中し、持てる全てで臨む人たち。
鋭い眼差しには、その人の信念や何かへの想い、活きゆく心的態度、心の底流にある愛するものまでが率直に顕れることも多々ある。
まあ、眼差しだけじゃなくて、その人の全体から放つ雰囲気もあるけども。
私は、鋭い眼差しをしながら何かに取り組む人たちを見ると、ある種の清々しさを感じるのだ。濁りのない鋭さならば。まっすぐに、真剣に、切実に、まさにその瞬間を生きる姿のひとつだと感じる。
高く、高く
どうか届いて
活きたい願い
自己評価を今は置いて
社会での立ち位置も置いて
生きものの都合も置いて
世界の定義も置いて
ただ存在があるだけになるまで
脱いで、脱いで
脱皮して、脱皮して
削いで、削いで
天空を超えて
魂の在るところへ
高く、高く
届け、在りたい願い
高く高くから
降り来たれよ私のための光の滴
星の輝きのように
花のこぼれるように
高く高くへ
私の命よ たゆまず進め
まっすぐに