「あの、落としましたよ。」
背後から突然、若い女性にこう声を掛けられた。
カギかな?音はしなかったけど、と思いながら、「え…あ、あぁ…すみません。」と、反射的にペコペコと頭を下げてしまう。
2ヶ月も前に退職したとはいえ、長年の営業職のクセが残ってしまっているようだ。
しかし、「はい。」と、彼女が差し出した手のひらの上には…何もなかった。
「…えっ?あの、僕、何を…」
「最近、時間が止まったように感じていらっしゃいませんか?」
「…え?」
何を言っているんだろうと、彼女の顔を見ると、真っ直ぐに僕の目を射抜いていた。
「止まったというより、なんとなく張り合いもなく、ただ一日が過ぎていく、が正しいかしら。」
「あ、あの…」
「仕方ないわ、あなたからは失われているもの、大事なものが。」
「は、はぁ…」
なんだ、突然のファンタジー設定か?
「だから、はい。」
そう言って彼女は自分の手を、僕の胸に当てた。
「あ、あの、どういう!?」
「…大丈夫、あなたはまだ動けるわ。ちょっとお休みしているだけ。ほら、聞こえるでしょう?リズムを刻み続ける鼓動の音が…」
「あ、あの…」
「うん、もう大丈夫。時を刻み出した。」
「え?」
「それじゃあ。」
な、なんだったんだよ…。
唖然としながら、去っていく彼女の背中を見つめていると、ポケットの中のスマートフォンが振動した。
「メッセージ…いや、電話?」
珍しいと思いながら通話ボタンを押すと、先に辞めた先輩から、「フラフラしてると聞いたが、暇ならうちで働かないか。」という内容だった。
「あ…ありがとうございます!」
「お前さ、なんかやってないとダメになるタイプだろ?しかも、自分のことよりも他人のために。」
「え、あ…そう、なんですかね…。」
「自覚なかったのかよ。まぁ、そこも含めてお前の良いところだからさ。そんなお前とまた仕事したいと思ったんだよ。」
「あ、ありがとうございます…。」
さっきの彼女が、本当に何かしたのだろうか。
わからないけれど、何かが動いた。
それは事実…そんな気がした。
「彼、ちゃんと動いたみたい。良かった。」
「さっすが、うちの占い館No.1ですね!アタシも見習わなくっちゃ。「見習い」だけに、なーんてね!」
「たまたま見えただけよ、彼の中の、止まった時計が。それに少し、力を込めただけ。それと…昔、少しお世話になったお礼がしたかったの。」
この町に越してきたとき、部屋を探すのを手伝ってくれたのが、不動産屋に勤めていた彼だった。
そのときは本当に楽しそうに仕事をしていたのに、今日の彼は生気がなくて…思わず、力を使ってしまった。
「あーあ、少女マンガとかドラマなら、ここから恋愛に発展するんだけどなー。そういう気配はないんですか!?」
「そ、それは私にもわからないわよ!」
「ふふ、顔真っ赤ですよー。」
「…っ、もう!」
お題「時計の針」
「なんか…疲れてる気がするな。」
きっかけはそんなもの。
「ジドウジンセイソウダンシステムニ、ヨウコソ
200エンヲ、オイレクダサイ」
「ソレデハ、アナタノゲンジョウヲ、オシエテクダサイ」
・年の離れた旦那と二人暮し
・子供はいない
・仕事は週4日
・先日、転職が決まり、今は転職先の勤務開始日まで自由な時間を過ごしている
・給料は自分で自由にできる
「デハ、シアワセナコトハ、ナンデスカ」
・好きな人が隣にいてくれること
・お金が自由に使えること
・衣食住に不自由せずに暮らせていること
・遊んでくれる友達がいること
・両親が元気なこと
「デハ、フシアワセナコトハ、ナンデスカ」
入力する手が、止まる。
「フシアワセな、こと?」
フシアワセ…ふしあわせ…不幸せ………あれ?
自分の口ぐせを思い出すと「料理を作らなきゃいけない」とか「掃除が全部私任せになってる」とか、不満に感じることはよく出てくるけど、不幸せなことって…何も、浮かばない?
「あれ…私…もしかして…?」
入力がなかったからなのか、もう一度同じ質問が流れる。
「デハ、フシアワセナコトハ、ナンデスカ」
・特になし
「ソレデハ、アナタハ、シアワセデスネ
ヒキツヅキ、シアワセナジンセイヲ、オスゴシクダサイ」
「幸せな人生…」
硬貨を求める最初の画面を見つめながら、私はその言葉を噛み締める。
「そうか、私、客観的にみたら、幸せなんだ。」
たかがシステムの回答だ。
しかも、気まぐれで200円硬貨を入れただけ。
回答内容もAIが発達したこの時代に、カタカナ表記の定型文のみ。
「…そうか、私、幸せなんだ…幸せ、なんだね。」
何故か、少しの涙が頬を伝った。
お題「溢れる気持ち」
「んー…おはよー…ふふっ、くすぐったいよ。」
毎朝、ワタシに向けられる、ふやけた笑顔。
そのゆるんだ口元に、ほっぺたに浮かんだえくぼに、ワタシは更にぬくもりを落とす。
「ははっ、なんだよ、お腹空いたのか?…時間…あー…寝すぎたか…。わりぃ、わりぃ。」
優しい大きな手が、ワタシの頭を撫でる。
違う、違うの。
「貴方が目を覚ましてくれて嬉しいの」
「貴方が目の前で笑ってくれているのが嬉しいの」
この言葉は、この想いは、貴方の目を見つめているだけじゃ届かない…。
だけど、貴方の目が今日もワタシを見つめていることにほっとして、ただ見つめ返してしまう。
毎朝、毎朝。
「…お前さ…俺が目を覚ますと、安心した顔しない?」
え?
「じいちゃんのことも、こうやって起こしてたのか?…亡くなった日の朝も。」
…そう、そうなの。
彼は、あの日、目を覚まさなかったの。
ずっと隣にいて、どこにでも一緒に出かけていた、愛しい人。
「稲穂みてぇに綺麗な毛の色だから、『コガネ』だな。」
その名を何度も何度も、手のひらに収まっていたときから、最後の眠りにつくときまで呼んでくれた、ワタシのご主人様。
「突然、だったもんな…。もう5年…なのか、まだ5年なのか…。お前の気持ちはわからないけど…そりゃ、不安になるか…。」
そう、そうなの…伝わっていたの?
「よしっ!」と貴方はいつも通り、一言気合いを入れて布団から起き上がった。
「ちょっと遅くなったけど、飯食ったら散歩に行こうぜ!今日はなんも予定ないし、お前の気が済むまでさ。…俺は、お前より先には死なねぇから、安心しろよ!な!」
そう言いながら、貴方はわしゃわしゃとワタシの頭を撫でた。
あぁ…あぁ…愛しい貴方。
ワタシの気持ちが伝わるくらい、貴方との生活も長くなっていたのね。
「ワン!」
貴方がワタシのご主人様。
二人目の大事な、愛しい人。
お題「kiss」