お金=命
僕らが生きる資本主義社会においては、
悲しいかな、この方程式が成り立っている。
お金がなければ、食い物にありつけない。
食い物がなければ、自ずと死が訪れる。
お金より大切なもの。
『愛、友情、いのち、家族etc…』
それはお金を持つ者が言えることだ。
本当にお金が無いとき、それらが大切だと言えるだろうか。
愛、友情、いのち、家族その他の根底にあるのは結局お金ではないか。
『お金じゃ買えないものもあるんだ!!!』
皮肉だろうか?
この言葉はお金の無い者を排除している。
「月が綺麗ですね」
君と歩く夜道、僕はつぶやく。
有名な言葉だけど、本をぜんぜん読まない君はこの隠語だけでなく、夏目漱石すら知らないだろうね。
君に出会ってから、僕の心はずっと振り回され続けているんだ。
これぐらいの悪戯は許してくれたまえ。
この世界には大きなバイアスがかかっていて、多くの人は大勢が『常識』『普通』とする人間関係に固執している。
相手に対する好意を誰もが主張できる世界じゃない。
好きだって、自由に言えればいいのに。
「俺、死んでもいいよ」
Twitterを消した。Instagramを消した。LINEを消した。
一瞬で、消えた。
開放感と同時に虚無感に襲われる。
『友達』と画面に映し出されていた人間関係は瞬間的に見えなくなった。
画面に映し出されていた『友達』は本当に友達だったのか。アイコンに象られたアレは友達だったのか。スマートフォンという媒体でメッセージを送った先にいたのは本当に友達だったのか。
本当の友達ならこんなにも跡形もなく消えていってしまうものだろうか。そんな疑問を感じるほど呆気ない。
いや、消えたのは僕なのだけれど。
だが、SNSから離れて少し経つと、視界が少し広くなったような気がした。四角い画面に貼り付けられていた目が、上を向いて、本当の青を見ることができるようになった。
久しぶりにカフェで友達のY君に会った。最初、僕はどきどきした。『友達』では無くなったから。友達ではなくなってしまっているのではないか。でも、僕らはいつものように話して、くだらない事で馬鹿みたいに笑う。
SNSを消しても、友達は何ら変わらなかったのだ。
絆とは、本来目に見えないもの。
人工的に見える化された絆は細すぎる糸なのだ。