NoN

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5/4/2024, 8:19:06 AM

 直下に海の広がる小高い崖の上に、おんぼろの木造の家を見つけた。見るからに空き家だし、しばらくの仕事の拠点にぴったりだ。しめしめとそこに向かう。ノックを2回。
「誰かいますかー」
「すんません、入ってます」
 なんと住人がいた。出てきたのは普通の男の子だった。白いTシャツにデニムといったいでたちで、少し寝癖のついた頭を搔いている。大学生ぐらいかな、だったら同じ年頃だ、なんてぼんやり考えていると、「あー」と青年が口を開いた。
「もしかして、ここの家の人?」
「え」
「ガスも電気もなかったし、人が住んでたようには見えないから勝手に使っちゃってたんですけど」
 住人じゃなかった。彼は彼で、空き家を住まいとして無断利用していた同類らしかった。あ、それなら交渉の余地があるかもしれない。
「私はここの住人ではないですよ。この辺で仕事が出来る住まいを探していたんです」
「なんだ、お仲間か」
「あのう、お願いがあるんですが」
 私はおずおずと切り出した。
「不躾ですが、ここを譲って貰うことはできませんか?」
「ええ?」
 青年は分かりやすく顔をしかめた。当たり前だ。先に家を見つけたのだから、家を好きに使う権限はあちら持ちが筋だろう。両者とも無断利用なのは置いておいて。
 しかし私も今回ばかりは譲れない。こんなにも仕事場におあつらえ向きな立地を手放す訳にはいかなかった。
「お願いします。ここでないとできない仕事なんです」
頭を下げて頼み込むと、青年はうーんと唸った。根が良いひとなんだなあと思う。
「そうは言っても、僕もここが一番仕事がしやすいんだよな。失礼だけど、君ってなんの仕事してるんですか?」
 当然の質問だった。珍しい仕事だからあんまり言いたくないのだが、話さないと納得してもらえないだろう。「ええと、信じてもらえるかは分かりませんが」私はしぶしぶ口を開く。
「潮の満ち干きってあるじゃないですか。学校では月の引力の影響とかって習うけど、実はあれ、私がやってるんです。何時までに満潮って、上から言われたとおりに毎日手動で調整しなきゃいけないの」
「潮の満ち干きを?」
「ほら、ここからだと海が見えるでしょ。仕事場にぴったりだと思って……」
 訳が分からないと一蹴されるかな。おそるおそる彼の顔色を伺うと、意外にも彼の表情は明るい。
「なんだ、ほんとにお仲間だ」
「えっ」
「僕はITの仕事をしているんですが、夜は副業で星の動きを管理してるんです。星たちが軌道からずれないように監視する仕事。ここ、街灯ないし空も開けてて凄くいいんだよね」
 驚いたことに、彼も同じような職種の人間らしかった。同職の人間を見たのは初めてだ。呆ける私を置いて、彼は「あ、そうだ」と指を鳴らした。
「嫌じゃなければ、ここ、一緒に使いませんか。お互い似たような仕事だし、助け合えることもあるかもしれないし」
「え、いいんですか?」
「うん。広いし、お互い好きに使えばいいかなって」
 そんなふうにして、とんとん拍子に私の新しい住まいと仕事場が決まった。促されるままに歩を進めると、意外と小綺麗な和風の玄関に迎えられる。
「1番奥の部屋が空き部屋です。海も見えるし、好きに使って。お互いあんまりワークスペースには入らないようにしよう」
「ええ」
 青年の案内に従って荷物を運び入れる。少し掃除すれば問題なく使えそうだ。何より窓の外、目下に広がる海がいい。仕事場として、これ以上ない完璧な部屋だった。「大丈夫そう?」と扉からひょいと覗いた青年に頷く。
「よかった。じゃあ、僕は仕事に戻ります。これからよろしくね。困ったことがあれば何でも相談してね」
「うん」
「ああ、それと言うまでもないだろうけど」
青年がにっと笑う。
「このことは二人だけの秘密で」

(二人だけの秘密)

5/3/2024, 2:38:01 AM

 ぎょろ、ぎょろ。不揃いに飛び出た目玉が忙しなく動く。滑らかな白い肌はもはや見る影もなくごつごつと隆起して、青黒く変色してしまっていた。研究所のような場所に拉致されて数年、度重なる実験を受けて、最愛の妻はもはや異形と呼ぶ他ない姿になってしまった。
 何の目的か、俺だけはそのままの姿で生き残ってしまった。いずれ理性を失った妻の餌にでもなる予定だったのだろうか。日に日に姿が変わっていってなお、俺の偉大な妻は人間としての心を手放さなかったので、奴らにとっては期待外れもいい所だったろう。ざまあみろ。
 しかしそんな日々はもうおしまいだ。突如、何者かに研究所が襲われたらしい。職員の阿鼻叫喚と血溜まりがそこらじゅうに飛び散って、それで研究所は静かになった。混乱の最中で実験室の扉の電子セキュリティも落ちたらしい。あんなに頑丈だった鉄扉は驚くほどあっけなく空いた。
「さあ、行こう」
 妻へ手を伸ばす。外はもしかしたらここ以上に危険かもしれないが、留まっている訳には行かない。一刻も早くここから出て、妻を元に戻す方法を探さなければ。しかし妻は動こうとしなかった。
 裂けた唇からありえない本数の鋭利な歯が覗く。妻は笑った。
「あなただけで行って」
 黒板を引っ掻いたみたいな声で、しかしかろうじて日本語とわかる言語で、妻はそう言った。
「私はもう無理。長くは生きられないし、動きも鈍いもの。助からないよ」
「無理じゃないよ」
「優しいね、ずっと」
 突然、視界がブレる。肩に衝撃があって、それから背中を強く壁に打ちつけた。いつの間にかくぐろうとしていた鉄扉が目の前にある。それから鉄扉の向こう側に座り込んでいたはずの妻が立っていて、ようやく妻に突き飛ばされたのだと気がついた。
「ごめんね。もう優しくしないでいいよ。早く逃げて」
「おい!」
「最後まで妻で居させてくれてありがとう。幸せになってね」
 目の前で鉄扉が閉まる。どれだけ押しても引いても、体当たりしたってびくともしない。今の妻には俺の力では叶わない。
 視界が明滅する。照明が切れかかっている。天井からミシミシと軋む音がする。この建物ももう長くは持たないらしい。
 縺れる足で俺は走り出した。何も考えたくない。けれど、俺を生かそうとした妻の気持ちだけは裏切らないために、足をひたすら動かした。

(優しくしないで)