NoN

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 ぎょろ、ぎょろ。不揃いに飛び出た目玉が忙しなく動く。滑らかな白い肌はもはや見る影もなくごつごつと隆起して、青黒く変色してしまっていた。研究所のような場所に拉致されて数年、度重なる実験を受けて、最愛の妻はもはや異形と呼ぶ他ない姿になってしまった。
 何の目的か、俺だけはそのままの姿で生き残ってしまった。いずれ理性を失った妻の餌にでもなる予定だったのだろうか。日に日に姿が変わっていってなお、俺の偉大な妻は人間としての心を手放さなかったので、奴らにとっては期待外れもいい所だったろう。ざまあみろ。
 しかしそんな日々はもうおしまいだ。突如、何者かに研究所が襲われたらしい。職員の阿鼻叫喚と血溜まりがそこらじゅうに飛び散って、それで研究所は静かになった。混乱の最中で実験室の扉の電子セキュリティも落ちたらしい。あんなに頑丈だった鉄扉は驚くほどあっけなく空いた。
「さあ、行こう」
 妻へ手を伸ばす。外はもしかしたらここ以上に危険かもしれないが、留まっている訳には行かない。一刻も早くここから出て、妻を元に戻す方法を探さなければ。しかし妻は動こうとしなかった。
 裂けた唇からありえない本数の鋭利な歯が覗く。妻は笑った。
「あなただけで行って」
 黒板を引っ掻いたみたいな声で、しかしかろうじて日本語とわかる言語で、妻はそう言った。
「私はもう無理。長くは生きられないし、動きも鈍いもの。助からないよ」
「無理じゃないよ」
「優しいね、ずっと」
 突然、視界がブレる。肩に衝撃があって、それから背中を強く壁に打ちつけた。いつの間にかくぐろうとしていた鉄扉が目の前にある。それから鉄扉の向こう側に座り込んでいたはずの妻が立っていて、ようやく妻に突き飛ばされたのだと気がついた。
「ごめんね。もう優しくしないでいいよ。早く逃げて」
「おい!」
「最後まで妻で居させてくれてありがとう。幸せになってね」
 目の前で鉄扉が閉まる。どれだけ押しても引いても、体当たりしたってびくともしない。今の妻には俺の力では叶わない。
 視界が明滅する。照明が切れかかっている。天井からミシミシと軋む音がする。この建物ももう長くは持たないらしい。
 縺れる足で俺は走り出した。何も考えたくない。けれど、俺を生かそうとした妻の気持ちだけは裏切らないために、足をひたすら動かした。

(優しくしないで)

5/3/2024, 2:38:01 AM