小学生四年生の頃に、父が亡くなりました。
それから、母と、兄と妹と暮らしてきました。
だから、僕は、「夫婦」という存在を、世間一般のイメージでしか知りません。
それに、父は僕が、小学生の頃から単身赴任していたので、正直、たくさんどこかに連れて行ってもらった、などということはありませんでした。
それでも、サウナの中で時折始まる、歳の離れた兄の一人語りによると、両親の夫婦仲はとても良かったようです。
なにやら、お互いの誕生日と結婚記念日には、プレゼントを送り合っていたそうで。
いま、実家にある黒い高級そうな箸も、そのひとつだそうです。
(ちなみに、その箸は、二膳ありましたから、ペアルックで使用していたのかもしれません。)
そうして、父が亡くなってから、その重大さを漠然しか感じていなかったあの頃の私と妹とを、兄と母は、本当に大事に育ててきてくれました。
父の代わりをしてくれた兄と、家族を代わりに養ってくれた母には、本当に感謝しかありません。直接面と向かって言うのは恥づかしいから、いまここで述べておきます。
ー兄上、そしてお母さん。普段から格別の愛情と配慮を僕に注いで頂き、本当に、感謝の念に堪えません。
まだまだ、失敗だらけで、支えて頂いているばかりの若輩ですが、これからは、できる限りの恩返しをしたいと思っております。時節柄、お風邪など召されませんように暖かくしてお過ごしください。末筆ながら、おふたりの、健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
……
ところで、父が亡くなってからも、父の実家に、毎年家族で墓参りに行っているのですが、正直なところ、若い頃の父の写真などを見ても、親に対する特別な情は湧いてきません。
代わりに感じるのは、その父の姿が、今の自分と重なって見えるような、不思議な感慨めいた思いです。
写真の中の父は、丁度成人式の時のものではありましたが、いまの自分よりずっと大人びたような印象を受けました。これから、貴方は、私の母と出会い、やがて僕の父親になるのでしょう。僕も、もうすぐ成人します。そうして、いつか父親として生きる日々がやってくるのかもしれません。
そのとき僕は、いい夫婦関係を築けるのでしょうか?
貴方のように立派な父親になれるでしょうか?
不安げにそう問いかけると、
写真立ての中の父は、「大丈夫だよ」と優しく微笑んでくれた気がしました。
【夫婦】
アニメで、敵キャラだった存在が、
戦いを経て仲間になったり、
その悲しい過去が明らかになって、
逆に主人公が悪者に見えてしまったり、
ということがある。
このことは現実にも起こりうる。
「普段いじめてくるアイツが、
弟にアイスを奢っているのを見た。」
「いつもみんなに挨拶している先輩が
清掃員にだけ挨拶していなかった。」
前者の方が、後者より好感が持てるのは、
なぜだろう。
きっと僕は、普段から「いい奴」と「悪い奴」を、
無意識にラベル付けしてしまっているのだろう。
(本当は、悪役も正義の味方も現実にいないのにね)
だから、「悪い奴」に謝られたり、
逆に「いい奴」に悪口を言われると、
途端にどうしていいかわからなくなる。
こういうのを、ヤンキーが猫に餌やってる効果とか、
約束したわけでもないのに裏切られたように感じる効果と僕は勝手に呼んでいる。
結局は、僕らの人間関係に一発逆転ホームランを、
持ち込んではいけないということだろう。
「宝物だから」
大切なものはあるだけでいい。
大切な人はいるだけでいい。
きっと、何よりも大事なものは、
手元にあるだけで、あなたの当たり前になっている。
だから、忘れてしまう。見失ってしまう。
近づけば近づくほど、遠くへいっちゃうもの。
だから、離さないよう、そっと握りしめておかなくちゃいけない。
空がある。雲がある。そして、友達がいる。
家がある。そこで、待っている人がいる。
日常は、あなたをずっと見てきた。
今度は、あなたが日常を見つめる番だ。
キリスト系の幼稚園に通っていた頃、久しぶりの遠出ということで、皆で教会に行ったことがある。
(もちろん、幼児なのでバス移動)
荘厳な扉を抜けて教会へ入ると、中は暗い。
当時の年齢からしてみると、西洋風の聖像は、独特とした気味の悪さを感じさせる佇まいであった。
やがて、一人ひとりがオルガンの前へと誘導される。何やら、白い固まりを渡されて、進んでいくと、それに牧師?が火を灯していくらしい。
この塊は後になって、キャンドル(洋ロウソク)というのだと知った。
それぞれに、火の灯ったキャンドルを中央の燭台に並べ、左右の席に座っていく。
ぼうっ。ゆらゆらと灯明が揺れる。
今までに体験したことの無い不思議な空間であった。普段は騒がしい幼児たちも、幻想的な場の空気に当てられて黙りこくっていた。
蝋が織り成す灯には、不思議な力がある。
そういえば、葬儀においても、和ロウソクを用いることが殆どであるし、神社でも、棚段に和ロウソクを並べて飾ることがままある。
なぜ、これほどまでにロウソクは、スピリチュアルな意味合いとともに、宗教的儀式に使われるのだろうか。
一重に、火への信仰があるだろう。
古来から、火は邪を払い、迷うものの道標となると言われてきた。
未だに、ロウソクが、その効力を発揮しているというのも頷ける。
でも、それならば、ロウソクである必要は無い。火を起こしたいならライターでも、バーナーでも良い。
だからこそロウソクの真骨頂は、「身を削り、人を照らす」というその献身性にあるのではないだろうか。
……と思ったけれど、献身性がスピリチュアル性を産むのなら。
備えられた大勢の蚊取り線香に、感謝のお祈りを
捧げて、小躍りしたっていいのかもしれないー
記憶が脳に定着するのは、大体3〜4歳頃からだと言われる。反対に、人間が死ぬのはだいたい80歳すぎが平均である。
つまり、人間の記憶というものは、ざっくり言って75年分の歴史が詰まっているということになる。
(認知症の方は、ここでは横に置いておく)
人間、それだけ生きればその分だけ、忘れたい記憶も積もっていくものである。
ただし、当然、忘れたくない記憶も募っていく。
そうして僕を紡いできた幾千幾万もの瞬間が、きっと、僕を僕のまま引っ付いて剥がさない強力な糊として機能している。
いつかの記憶の波に翻弄されて、「思い出せない」と「忘れたい」の感情の狭間に漂っている僕。人間の設計図のどこかにきっとある、想い出という名の器官。
無意識と意識を頻繁に飛び交いながら、やがて僕らのデータは色褪せ、或いは美しく変色し、引き出しの中に丁寧にしまわれてゆくのだ。
それはきっと、僕らの人生のエンドロールの中で、早送りの映画の一コマに過ぎないのだろう。
在りもしない記憶に煩悶し、うろたえる僕を置いていくようにして、時代は移り、変わってゆく。
そうして、いつか、人工知能が僕らに成り代わり、僕らのように歩き、話し、笑い、愛を叫ぶ日が来るのかもしれない。
いや、きっと来るだろう。
それでも、僕たちという灯火は絶対に消えない。いつまでも、いつまでも狂おしいほど懐かしい想い出の灯りに照らされている限り。