うちで飼っているドラゴンが熱を出した。小さく丸められた背中からは湯気が、口からは唸り声と煙が漏れている。室温が上がっているのか12月なのに汗が止まらない。かかりつけの獣医さんに連絡を取ろうとスマホを触ってみたが汗で指紋認証が通らない。滑る指でもたもたとパスワードを入力していると、部屋からバキッミシッと破裂音が鳴り始めた。急激に上がった湿度による家鳴りだろうが、とにかく音がすごい。1年分くらいまとめて鳴っている気がする。このままだと家が弾け飛んでしまいそうなので急いで電話をかける。コール音が家鳴りにかき消されていたので一旦外へ避難した。
「大変そうだねえ。すぐ向かうからね」
無事往診してもらえることになった。大型の子だと自分で病院に連れていけないのが厳しいところだ。部屋に戻ると家鳴りとかすかなうめき声に出迎えられた。とりあえず冷やしてあげたほうが良いだろうと自分用の氷枕を首下の隙間に差し込んでみた。ないよりかはマシだろう。他に何か冷やせるものはないかと台所を漁っていると何やら異臭がしはじめた。嗅ぎ慣れない臭いはうちのドラゴンからのようで、もしやと先程差し込んだ氷枕を引き抜くと外装部分が溶けかけていた。まさかここまでとは。首には付着していないようで安心したが、物が溶けるほどの高熱になるなんてこの子は大病を患ってしまったのではないかと不安と恐怖に飲み込まれる。そんな気持ちに水を差すようにインターホンが鳴り響いた。
「来たよお」
獣医さんはテキパキと準備を終えると手慣れた手つきで診察をはじめた。流石はベテランの獣医さんである。こちらが症状やら不安やらを支離滅裂にまくし立て周りをウロウロしても穏やかに耳を傾けてくれる。人間の扱いについても完璧だ。
「うーん、これは微熱だねえ」
一応お薬出しておくねと付け足された言葉に拍子抜けする。微熱でこれなのか。獣医さんは薬の与え方や冷やし方の説明をはじめた。とりあえず家鳴りで家が吹き飛ばないかどうかもあとで聞いておこう。
「キャンドルってどうすればいいんだ……?」
もちろん火をつけるのは分かっている。火をつけた後が問題なのだ。
テーブルの上に鎮座しているのは誕生日プレゼントでもらったキャンドル。小さなコップのような透明なガラス容器に薄いピンク色のキャンドルが収まっている。先程匂いを嗅いでみたところ甘いような匂いがした。食べ物系ではないのは確かだが何の匂いか検討もつかない。火をつけたら匂いも強くなるのだろうか。
とにもかくにも火をつけないことにははじまらないので火をつける道具を探そうとしたが、そもそも我が家に置いてありそうなものが思い付かない。両親はともに非喫煙者でライターがあるとも思えない。ではマッチはどうかと考えてみるが仏壇のない我が家には置いてないだろう。コンビニで買ってこようかとも思ったが、一度しか使わないのにわざわざ買うのもなあと思いとどまる。残りの処分にも困りそうだし、下手したら両親に未成年喫煙を疑われかねない。これはガスコンロ直で火をつけるしかないか、と思ったあたりでチャッカマンの存在を思い出した。たしか台所に置いてあったはずだ。
無事キャンドルに火が灯された。小さな火がゆらゆらとガラス容器の中で揺れている。
このあとはどうすればよいのだろう。キャンドルが燃え尽きるまで眺めていればよいのだろうか。じっとキャンドルを見つめていると、窓から西日が入ってきた。キャンドルが入ったガラス容器に反射して強く光っている。せっかくつけた火が西日に負けている。
「これはタイミングを間違えたな」
息を吹き掛けて火を消した。ガラス容器が熱くなっていてびっくりした。火をつけているので当たり前である。十数分ほど火をつけていたがキャンドルはあまり減っていなかった。使いきれる未来が見えない。キャンドルは棚の上の住人になることが確定した。
「冬になったらサンタさん研修があるからな。予定を開けておくように」
久々に顔を合わせた父は唐突にそう言った。聞き間違いだろうか。
「いまサンタさん研修って言った?」
「ああ。父親は参加必須だから今のうちに調整しておいたほうがいいぞ」
どうやら聞き間違いではなかったようだ。サンタさんとはサンタクロースのことで合っているのか。聞きたいことが山程あるがうまく整理できない。
「それって父さんも受けてたの?」
なんとか絞り出してみたものの無難な質問になってしまった。もっと他に聞くべきことがあるというのに。
「もちろん。欲しいものの聞き出し方とかうまい誤魔化し方とか色々と勉強になるぞ」
かなり実践的な内容だ。サンタとしての苦労が窺える。話を聞いてみるとサンタさん研修とやらは公共団体で開かれており、サンタさん経験者たちが悩めるサンタさん初心者達のサポートを行っているらしい。段々サンタさんがゲシュタルト崩壊してきた。
「本場のサンタクロースを呼んで講習するとかじゃないんだね」
なんとなしにそう聞いてみると父はしょっぱい顔になった。
「予算が足りないんだとさ」
考えてみれば当然ではあったが、地に足付いた世知辛い理由に同じくしょっぱい顔になってしまった。
「あっ可愛い~このポテポテ歩き可愛すぎない?あ、転んじゃった。めっちゃ巻き込んでる。転んだときの足の形が可愛すぎる……。巻き込まれた子アワアワしてる可愛い子猫同士の交通事故可愛すぎる。いや交通事故は可愛くないけど。あ~この密集地帯最高。この世のすべての可愛いが集結してない?可愛い以外の語彙が出てこない。可愛いの前に人は無力すぎる。可愛いを超えた形容詞を発明すべきじゃない?もしかして既にあったりする?目の前の可愛さを表すのに可愛いだけじゃ足りなさすぎる。この言い表しがたい気持ちを表すことばが欲しい。切実に。なんというか、このパヤパヤした毛の感じとかこう……すごく可愛い最高駄目だ可愛いしか言えない。もう別名可愛いでもいいんじゃない?学名を可愛いに変えるべきな気がしてきた。可愛いということばの8割近くは猫子猫に捧げられてきたと思うし妥当な気がする。あれ?そうなると早急に可愛いに代わる形容詞を作り出す必要があるのでは?……無理だ私の貧弱な頭じゃ産み出せそうにない学者を呼ぶ伝手もない私は無力だ……。」
「落ち着いた?」
「うん……動画ありがとうね……」
とっくに動画は再生終了していたのに律儀に待ってくれていた友人の優しさに感謝した。
「兄ちゃん!風捕まえに行こ!」
今年小学生になったばかりの弟は、いつもどおり唐突にそう言った。
「学校でね、秋見つけましょうって言われた!」
学校の宿題か何かだということは分かった。自分のときも似たようなことをやらされた記憶がある。
「それなら落ち葉とか松ぼっくりのほうがいいんじゃないか?」
「みんなそれじゃつまんないもん!」
その気持ちは分からないでもないが少し心配にもなる。
「そもそもどうやって風を捕まえるんだ?」
ドヤッと音が聞こえてきそうな顔でビニール袋を見せてきた。スーパーとかで手に入る取手のない半透明のやつだ。
「はやく行こ!」
外へ出ると西日が目に突き刺さった。夕日から目をそらすように弟のほうを見ると両手で持ったビニール袋を頭上に掲げていた。妙に凛々しく見えて少し笑ってしまった。
「兄ちゃん、風どっちから吹くかな?」
「ちょっと分かんないな。風が吹いてから向き変えればいいよ」
分かったと元気いっぱいに返事をし弟は風を待ち構えはじめた。
僕は弟を視界に入れつつ落ち葉か何かがないか探してみる。教師はいつだって例外を嫌う。自分と同じように傷つくかもしれない。落ち葉一枚で回避できるのなら探さない理由はなかった。
一陣の風が吹いた。街路樹から枯れ葉が巻き上げられ目の前に降りそそぐ。目についた赤色の紅葉を手に取った。湿っていない、調度いい状態だ。
「兄ちゃん!風捕まえたよ!」
膨らんだビニール袋を自慢げに見せてきた。風で冷えたのか鼻の辺りが少し赤くなっている。
「ついでにこれも入れておきな」
「もみじ?なんで?」
さっきの風で捕まえたと言うとすごいすごいと喜んで受け取ってくれた。