転んでしまったからだろうか。膝に抱えた麦わら帽子はつばに解れているところがあって自分のすり傷よりももっと可哀想に見えた。私は泣き出した。誰もいない畦道だった。誰も助けには来なかった。やっぱり照りつける太陽だけが涙を乾かした。しっぽの生えた麦わら帽子を被り直してもう太陽の励ましなんていらないから、と言うように右足から走り始めた。誰もいない畦道だった。入道雲が青く見えた。私は走った。
視線の先には海があり海の先にはきっと陸がある。この場所からその陸までの時間を海と呼ぶ。海には深さがある。海の下には海の下たる生命とその集合があり海の上には空。その青と青の狭間を朝と呼び青と青を海と呼ぶ。ことにして。
二年前海水浴に行くと言った君の横顔も海と呼びたい。君は助手席に乗ってポテトフライを犬歯にあてがいながら夏の間隙を縫って声に出す。うずまき管の中に住む私の夢を君の声が教えに来て門前払いしようと思っても金縛りにあってできない。君が笑う。後部座席に私たち以外を残して君が砂浜に走り出す。その後ろ姿を海と呼ぶなら私は海が好きだと思う。
海が嫌いだ。時間も朝も空も海だから嫌いだ。海だから嫌いなんだ。私が海に溶けていき今度こそ君の横顔を思いだし雨がふり夢がさめ夏がもう二度と来ないことを約束し君の後ろ姿をどうしても海と呼ぶならきっと私は海を愛すると誓う。
そして今年も夏がやって来た。視線の先には海がある。
ありがとう、と言うと君は少しだけ笑って、もっと頑張らなきゃ、なんて返すから僕はそれが苦しくて悔しくて悲しくなる。ほんの少しね。ほんの少しだけ笑う君。小春。それが悔しい。
もっと頑張らなきゃ、と君が言って僕は、えらいね、頑張ってるね、無理しないでね、いつでも話聞くからね、って返すけど僕が本当に言いたかったのはそんなことじゃなかったんだ。それなのに、ほんの少し笑うしか誤魔化し方を知らない僕だから、君が心配する。春一番。悔しいな。
もっと、ありがとうが言いたかった。君を頑張らせるのが怖かった。ほんの少しの笑顔を、とびきりの笑顔に変えられない自分が情けなくて逃げた。ごめん。僕が本当に言わなくちゃいけないのは、ありがとうじゃなくてごめんなのかもしれない。だけど、君にもう一言だけ言えるなら。ありがとう。
春。やっぱりもう一言だけ。愛してる。
なぜ色は無くなったのだろう。よく考える。宇宙法則による絶対なのか、神さまの気まぐれか。はたまた睡眠不足の色たちが朝寝坊をして、私達のところにまだ到着しないのか。本当によく考えるのだ。答えは誰も知らない。科学も哲学も労働も説明できない。それでも私はよく考える。
世界から色が無くなって、全ては実際になった。より首の長いキリンが認められ、より口の大きいカバが認められた。比喩だ。人々の心は肥大化し、鋭く尖り、機能性を備えるようになった。分かりやすく、痛みやすく。人々は理科の実験をするように実際だけを追い求め、心の色を見ることを辞めた。最も、実験器具は片付けられずに放ったらかしのままだった。
私もいつの間にかそんな世界に染め上げられていたのだろう。君の異変に気が付けなかった。きっとまだこの世界に色があったら君はきっとものすごく顔色が悪かったと思う。でも気付けなかった。君は倒れた。泣きもせず。
いま私は彼女の(君は美しい女性だった。色がなくても。実際に)心を持っている。両手で小さく抱えている。磨り減らしていて川の下流に転がっている丸っこい石みたいだ。家に持ち帰ったらその姿かたちをデッサンしようと思う。デッサンは額縁にいれてとっておく。心はいつか磨りきれて海へ流れるかもしれない。だけどもし世界に色が戻ったら、色たちが長い夜から目覚め私達のもとにやってきたら、私は彼女の心を優しい蒼で塗る。
気付けなくてごめん。
理由なんて聞くなよ、今から君を形容しようと思うんだ。君は今だ。満ち足りてそれでいて青い。触れれば弾けてしまいそうだけど、ずっと萎まずにいる。誰かを待っているし誰かを待たせている。果実を摘みながら種を蒔いている。作曲しながら調弦をする。そんな感じだ。君は今。僕は過去。二人に未来なんて必要ない。明日になっても君は今。僕は過去。それでいい。それでいいんだ。
一緒に寝たい。