5/12/2024, 3:35:18 PM
ジワジワと照りつける様な暑さの中
麦わら帽子をかぶって虫取りに勤しんだこと。
友達とふたりで分けて食べたソーダ味のアイス。
藺草の香り溢れるおばあちゃんの家で飲んだ
ちょっとだけ濃いカルピスの味。
すぐに落ちてしまった線香花火と、
夜空に輝く大輪の打ち上げ花火。
おとうさんに背負われ微睡んだ夕暮れ。
全てが懐かしい思い出で、
毎日がキラキラと輝いていた子どもの頃。
大人になっても、きっとその日々は続くのだろうと
信じていた無垢な瞳は、何時からか濁り。
カブトムシを掴んでいた手にはマウスが、
友人に見せた笑顔は死に、虚ろ目には液晶から漏れる光が滲む。
優しく甘いカルピスを忘れるようなエナジードリンクの味は、何時からかすっかり常飲するようになってしまった。
父の背を思い出す夕暮れには上司の怒鳴り声と終わらない書類の束。
打ち上げ花火は高層ビルに隠れ、残業の夜景に消える。
線香花火と同じように今にも消えてしまいそうなのは
懐かしい思い出か、それとも ___。
「あぁ、まだ《子どものままで》、いたかった。」
5/11/2024, 2:34:51 PM
愛 と 好き の違いは何か。
好き だから 愛 に変わるのか、
愛 があるから 好き になるのか。
何処かの誰かが言っていた言葉に
『好き は自分本位な気持ちを指し、
愛 は相手を思う気持ちを指す。
好き には見返りを求めてしまうけれど、
愛 に見返りを求めることは無い。』
というものがある。
本当にそうだろうか?
一方通行の好きで満足出来てしまう人も居れば
同じ重さの愛を求める人も居ると言うのに。
人の数だけ愛の形があるというのならば、
歪んだ形の愛は何故否定されてしまうのか。
…考えれば考えるほどに難しい問題だけれど、
私たちはきっと、今日も明日も、何百年後も、
何千年と変わらぬ形で《愛を叫び》、繋がっていく。