この瞳に映すのが、
常に安らかで、幸せな世界でありますように。
そして、
あなたの瞳に映るのも、同じ世界でありますように。
誰もその瞳に、
恨みや憎しみを宿さないような世界が、
いつか来ればいいのにと強く思っている。
︎︎◌ 安らかな瞳 ︎︎◌
世界は広いから、
宇宙は広がり続けているから、
新しく知れることが、どんどん増え続けているんだ。
とどまることを知らず、
色んなものが生まれ、色んなことが起こっている。
知ることは、自分をつくっていくこと。
知ることで、できることが増える、考え方が変わる。
でも、もしかしたら、知ることで、
できなくなることがあるかも。
考え方も良くない方向に変わるかもしれない。
知ることは、自分をつくっていくこと。
知ることは、自分を変えていくこと。
自分が良くなるか、悪くなるかは、分からない。
知識を得た上で、
どう動くか、どう変わるか、
自分でコントロールできるかもしれない。
できない可能性だってあるけれど。
生きていると、どうしても、嫌でも、
知っちゃうことが多いんだよね。
でも、知ること自体は、
一つも悪いことはないんだと、私は思っている。
嫌なのはきっと、知ったことで、悪いほうに、
自分のあり方が変わること。
まわりが、変わって見えちゃうこと。
それが、少し怖いんだ。
だけど、私は今、知りたいことの方が多いよ。
だって、分からない。
自分が前より素敵に変わるかもしれない。
まわりが前より素敵に見えるようになるかもしれない。
可能性が、捨てきれないんだから。
︎︎◌ もっと知りたい ︎︎◌
今日が、平穏な日であるということが、
どれほどの奇跡か、
それが何日も、何ヶ月も、何年も続くことが、
どれだけ恵まれたことであるのか。
私たちは、気が付かなければならない。
私は、平穏でない日常を知らない。
生まれてこの方、ずっと平穏な日々を過ごしている。
私には、不穏な日々がどのようなものなのか分からない。
きっと脅かされて初めて、
平穏な日常があることの奇跡を知ることになるのだろう。
でも、もうこれ以上誰にも、
平穏な日常が壊れることを体験してほしくない。
身をもって、平穏が崩れることをもって、
その大切さを知る必要はない。
ただ、分かっていればいい。
平穏なときに、分かっていればいいのだ。
穏やかな日々がいつまでも続くよう、願っている。
できるだけ長く、長く。
そして、平穏が去ってしまったあの場所にも、
早く平穏が戻るよう願っている。
︎︎◌ 平穏な日常 ︎︎◌
暴力はときに、
自分を護るため、誰かを護るため、何かを護るため、
選ばなくてはならない手段の一つであると私は思う。
平和とは、暴力の不在を意味する。
暴力の存在するところに平和はない。
では、暴力の存在するところに愛は無いのか?
愛するものを護るため、
誰かを手にかけたり、闘いに参加したりすることに、
愛は微塵も無いと、そう言えるのだろうか。
愛は、実体の無いものであり、
それを表す態度や行いは、
いくらでも存在し、どんなものにでも変形しうるのだ。
そして、それは本人が思う限りは、
正真正銘、本物の愛なのである。
つまり、愛はときに暴力という形にもなりうるのである。
愛と平和は、安易に結びつけるものではないと私は思う。
そもそも多くの人がこの二つは共にあるべきだと、
そういう考えを持つに至ってしまったのは、
大多数の意見を元に、
愛を定義付けようとしてしまったからである。
愛とは、暴力に結びつくことのない平和なものなのだと。
全然違うのである。
“可変的”である『愛』と“不変的”である『平和』は。
︎︎◌ 愛と平和 ︎︎◌
時間は、流れ続け、止まってはくれないから、
油断していると、どんどん過ぎていくんだよ。
そして、
過ぎた日々には決して戻れない。
過ぎた日々は、思い出に、
思い出の世界に変わってしまう。
思い出の中には、今も確かにあるのに、
この世界にも確かに“存在していた”のに。
過ぎたら、もう二度とこの世界に、
同じ時、同じ日は、存在できない。
どれだけ待っても、やってこないんだよ。
噛み締めなくちゃ。
今を、明日も、明後日も、、、
◌ 過ぎ去った日々 ︎︎◌