部屋の片隅を凝視する
あれと戦えというのか
正直、今すぐにでも逃げたいが、ここは自宅
なので逃げ場はどこにもない
音もなく現れ、気づいたらそこにいた
名前を言ってはいけないあの虫だ
三億年ほど前の古生代石炭紀に現れたと思われていたが、後の研究でそれより後の二億年ほど前、古生代ペルム紀に爆誕したと判明したらしい生きた化石
動物界節足動物門昆虫綱例のあの虫目
食器を噛ったことがその名の由来
スズメバチのような差し迫った危険性はないが、家に存在するだけで住人の心の安寧を脅かすもの
様々な害があるらしいものの、やはりあの巨体で室内に存在することが、嫌われる最大の要因だろう
そいつが今、部屋の片隅にいる
どうする?殺虫剤を発射するか?
一応あるが後始末はどうすればいい?
トイレットペーパー越しでも触りたくないんだが
そもそもこいつに殺虫剤なんて効くのか?
掃除機で吸い込むか?
それなら大丈夫だが、まだたいして使ってもいない中の袋は捨てるようだぞ
もったいない
他に何か方法はないか?
しかし思いつくまで放置しておくのも落ち着かない
掃除機か
もったいないが掃除機しかないか
そこにいろよ、すぐに吸って、袋を閉めてやるからな
絶対に動き回ったり、飛んだり、隠れたりするなよ
ああ、自宅での予定が狂いそうだ
リラックスタイムに入ろうとしていたのに
世界が逆さまになった
空は底なしの地面になり
地面は世界を覆い尽くす天井と化す
見慣れたはずの景色が
今はまるで異世界のよう
それもそのはずだ
壮大そうなことを言っているが
実際のところ
世界が逆さまになっているのではなく
私が逆さまになっているのだ
早い話が逆立ちをしている
頭に血が昇るのでもう体勢を戻すが
たまに逆立ちして世界を見ると
なかなか新鮮で面白いものだ
またやってみよう
しかし逆立ちする時は
安全には気をつけなければ
頭が冴えている
様々な考えが浮かんで来て、そのせいで眠れないほどだ
ついにはどうしたらこの状況で眠れるか、なんてことを考え始めた
完全に本末転倒じゃないか
眠る方法なんて考えたら、眠れるはずがない
考えるな、感じろ
目だけでなく、心のまぶたも閉じるんだ
心を動かさず、ただただ静止しろ
今は思考を放棄し、目の前の暗闇と一体になれ
自然と、自分自身の呼吸に集中する
一定のリズムで、同じように体が伸縮するのを感じながら、ひたすら心を凪の状態に保つ
時間が経ち、私は眠れなくて苦しんでいたことを忘れつつあった
頭が段々鈍っていき、思考が入る隙間は徐々に狭まっていく
そして、私はいつの間にか、眠りについた
いつまで寝てるんだー!
今日は朝から予定があっただろー!
全然起きる様子がない
気持ちよさそうな顔で寝てるなぁ
おまけに寝言なんて言ってるし
いい夢見てるみたいだけど
寝てる場合じゃないんだよ
さっさと夢から覚めてくれ!
出かけないといけないという
この現実を直視してくれ!
夢と現実なら今は現実を優先するんだ!
ああーでもこう幸せそうな寝顔を見てると
起こすことに罪悪感がある
いやいやダメだ!
ここは心を鬼にして起こさないと!
おーい!
早く起きないとそのへんにあった
君の黒歴史ノートを音読しちゃうぞー!
別れ際にさよなら、と言おうとしたら
さよならは言わないで、と言われた
長い別れになるような気がして、好きではないらしい
確かに、さよならという挨拶にはそんな印象がある
もしくは、もう会えなくなるような気さえする
その気持ちは理解できるので、私は違う言葉で別れの挨拶をした
「また、明日」
これなら再会の約束になるから、すぐ会える感じがするだろう
実際、明日も会うことになるのだから、この言葉ならピッタリだ
この言葉で満足してくれたようで、彼女はニコッと笑うと、私と同じく「また、明日」と言いながら、帰路についていった