まだ書いていない
お題・スマイル
(入れたいキーワード・花、女の子、家族)
いつだったか、私は私と契約をした。
消えたい消えたいと泣く私と
消えたくない生きたいと怒る私で。
誰かを◯◯したら消えてもいいと。
意図して◯◯したら消えなさいと。
それ以外で、決して消えることを選ぶなと。
生きる選択をしなさいと。
誰にも言えない私の秘密。
どこにも書けない
私の心の奥底に貼り付けた
大事な契約。
馬鹿みたいと思う人もいるでしょう。
しょうもないと思う人もいるでしょう。
けれど、どう思われようと
私にとってこの契約は
自分を繋ぎ止める大事な鎖なのです。
この契約が、実行されることがありませんように。
「お久しぶりですね」
その声に振り向けば老婆が一人立っていた。
顔も手も皺くちゃで、だけど背筋はしゃんとしていて、どこかに懐かしい面影のある老婆だった。
「はて、どこかで会いましたかね?」
首を傾げれば、老婆は小さな目をほんの少し伏せるが、すぐに前を向いてにこりと愛想良く笑った。
「あら、私の勘違いだったかしら」
ごめんなさいね、と笑う老婆に私はいえいえそんな、と両手を前で振る。もしかしたらどこかで彼女と会ったことがあるのかもしれない。最近、私はどうも忘れっぽいからその可能性が高いから。
それを伝えれば、老婆はあら、そうなんですか、と言葉に心配を滲ませながら返してくれた。
「失礼ですが、私は貴方と会ったことがありますか?」
「ええ、ありますよ。何度も隣を通っているのよ貴方。でも貴方はとっても足が速いから、声をかける前にいなくなっちゃって」
「あはは、申し訳ない」
居心地が悪くなり、気を逸らすために頭を掻く。老婆はそんな私を気にすることなく話を続けた。
「挨拶したり、一言二言会話したこともあるけれど、貴方はすぐいなくなっちゃいましたからね。私も忘れるのも無理ないわ」
「それでも、忘れてしまったのは申し訳ない」
「あら、じゃあひとつだけお詫びをしてくださる?」
悪戯っ子のように老婆は笑って提案してきた。
「どういったことでしょう?私にできるなら」
「そうね」
老婆が近づく。ゆっくり。ゆっくり。
私は動かずじっと老婆を待った。
そして、老婆は私の目の前まで来て言ってきた。
「私を抱きしめてくださる?きっと最期だから」
最期の言葉が少しだけ引っ掛かるが、老婆の言葉に私は頷いて目の前の彼女を抱きしめた。
ほんの少しふくよかで随分と背の低い老婆は、抱きしめるととても柔らかくて温かい。
ああ、なぜだろう。
眠くなってきた。
うつらうつらする私を老婆がぎゅっと抱きしめ返す。
「お疲れ様です、あなた。一緒に休みましょう」
老婆の優しい言葉に応えて、私はゆっくり目を閉じた。
最後に、どこかで古惚けた大きな音が聞こえた気がした。
ボーン。ボーン。ボーン。ボーン。。。
お昼過ぎだった。
お屋敷を飛び出して、私は裏庭に飛び込んだ。
後ろから飛んでくる怒声たち。それらが追いついてくる前に、鬱蒼と茂った庭木へと。
どんどんどんどん前に進んでいく。枝が引っかかっても気にしない。
進んで進んで、もっと進んで。
開けた場所に出て、私の足はやっと止まる。
そこは私の大切な場所。
小さな頃からの小さな秘密基地。
ぽっかり空いた空間は芝生と一本だけ離れて植えてある枯れ木だけ。
その枯れ木に手を付いて、私はずるずると膝をついた。
昔の私ならここでわんわん泣いたっけ。
今はもう涙なんて出てこないけれど。
ごつごつとした枯れ木に手を滑らせる。昔はまだほんの少し葉が付いていたこの木も、今はもう葉っぱ一枚生えてこない枯れ木になってしまった。
まるで私の心みたいね。
その場に座り込む。昨日は雨だったからかちょっと湿っている。でも気にはならなかった。
無心に、ぼんやりと、枯れ木の肌を撫でていく。
かり。
指先が木の窪みに引っかかった。
窪みを見る。それは木肌に彫られた文字の一部だった。
まだ残っていたんだ。
ほんの少し、心が温まる。
小さい頃、本当に小さい頃に、あの人と彫った文字。
歪で、拙い、あの人が彫ってくれた文字。
私とあの人の頭文字、その間に彫られた相合傘。
あの人は、これで二人は恋人同士だなんて言ってたっけ。
何も知らない頃だったから、間に受けた。
私も、あの人も。
誓いのキスまでここでしたっけか。
「ああ」
歪んだ文字が更に歪む。
目が熱い。頬に雫が流れていく。
そして落ちた雫は、私の着る喪服を濡らしていく。
「なんだ」
私、泣けるんじゃないか。
もう泣くことなんてないと思っていたのに。
それくらい、もう充分泣いたはずなのに。
溢れて止まらない。
四十九日が過ぎたって。三回忌が過ぎたって。
他の殿方に嫁ぐことが決まったって。
「好きよ」
屈んで、滲んで歪んだ文字に口付ける。
あの人と初めて口付けた時はどんな感じだったっけ。
あまり思い出せなくて、込み上げて、溢れた。
「キスってしたことあるか?」
夕焼け色に染まった顔をこちらに向けることなく、向かい側の彼が言ってきた。
「頭でも打った?」
「その返しは面白くないぞ」
カリカリと、小さな音を立てながら彼のペンが動く。丁寧で角ばった、いつもの彼の文字。日直ノートに書かれているのも彼らしく真面目なことばかり。
そんな彼の口から一生出てこないだろうと勝手に思っていたワードが出てくるとは、何だか笑えてきた。
「おい」
眼鏡の奥にある切長の目がこちらをじとりと睨む。おお怖い怖いと戯けて言えば、その目が更に鋭くなってきた。これ以上やると面倒なことになりそうだ。
「キスねえ」
頬にかかった邪魔な髪を耳にかける。彼の表情は動かない。眼鏡の奥に見える目からも解らない。一体、何を考えているんだろう。
「あるよ」
「ふーん」
さも興味なさげにしか聞こえない返答に少しカチンときた。
「ねえ、聞いといてその返事はなくない?」
「気を悪くしたか? すまない」
淡々とした謝罪の言葉に申し訳なさも何も感じなかった。もう少し何か言ってやりたくもなったが、やめた。ただでさえ怠い日直の仕事をしているのだ。余計な仕事はしたくない。ため息だけに留めた。
「キスしたことあるなら、もう一つ訊きたい」
「何が?」
「キスに味はあったか?」
「は?」
やはり頭をどこかで打ったのではないだろうか?
こちらが訝しげに見ても彼の表情は変わらない。だが、目が少し輝いて見えるような気がした。
「覚えてないよ。随分と前だし」
「そうか」
今度は残念そうな顔に見えてきた。生真面目な優等生タイプな彼がそんなに興味を持つなんて。偏見なのは承知の上だが、意外なものを見てしまったように感じて仕方がない。
そんな彼を見ていたら、自分の中でほんの少し悪い癖が顔を出してきた。
「気になるの?」
「え?」
「キスの味」
彼は暫し黙って、小さく頷く。
「じゃあ」
味わってみなよ。
机を乗り上げて、彼の頬に手を添える。あ、なんかちょっと冷たい。季節はもう夏なのに。
彼の切長の目が大きくなる。一緒になって少し開いた口に私は有無を言わさず口付けた。
おまけにと固まった彼の舌をべろりと絡めて、ゆっくり、ゆっくり唇を離してやった。静かな教室に、小さな唾液の水音がやけにいやらしく響いて聞こえる。
眼鏡に一瞬映った私の顔は、腹立たしい程に母によく似た悪女の顔で笑っていた。
「どう?」
ぽかん、と間抜けな顔をしてる彼に問いかける。その顔はちょっと可愛いかも、なんて思ってたら瞬きの間に彼はいつもの生真面目な面白みのない顔に戻っていた。
「無味だな」
「……それだけ?」
「ああ」
淡々とした声に私の悪い癖が小さく舌打ちをした。面白くない。本当に、面白くない奴だ。
「もう少し何かなくない?」
「ないな」
パタリ、日直のノートが閉じられた。いつの間にか彼はノートを書き終えていたようだ。
先ほど同級生に突然キスされたというのに、彼は何事もなかったように身支度を目の前で整えていく。私はそれをぼんやりと見ていた。
「帰るぞ」
「はーい」
完全に身支度を整え終えた彼の言葉に私も腰を持ち上げる。既に帰り支度は済ませてあるので何もない。
「よし、帰るかー」
「先生にノート出してからな」
彼の言葉にはいはいと適当に返事をする。彼はその返答を気に留めない様子で職員室へと向かった。私もそれに続く。
気付けば、真っ赤だった夕焼け空は藍色の夜空に変わろうとしていた。