「優越感・劣等感」
人生において
優越感、劣等感はツキモノだ。
人によってはこの二つを感じる割合は異なる。
どちらも同じ割合で感じる人は少ないだろう。
学年が上がる度に集団行動で優越感、劣等感は増す
最高潮なのは中学高校ではないだろうか。
大学・社会人になれば益々優越感、劣等感のレベルは桁違う。
結果を残さなければならないと云う使命感も生まれてくる。
何をするにも張り合い、
優越感、劣等感を産み出して
妬みも恨みも産み出して
人間は面倒だね。
考え方・使え方を間違えてしまえば
自分の人生を狂わせる
「これまでずっと」(一行詩)
これまでずっと黙ってて御免
「実は雌なんだよね」とふっくらお腹を見せてきた野良猫よ
◆
これまでずっと居てくれてありがとうな 俺の在籍よ
◆
これまでずっと避けてきたモノはこれからもずっと避ける
◆
これまでずっとあったモノが急に居なくなって買えずにいる
◆
もう無理なんだとこれまでずっと騙し続けながら使っているテーブル
◆
これまでずっと使っていたガラホ この先も製造続けてくれ
(遅い七夕願い)
「1件のLINE」
1件のLINEで
お友達作りもお金作りも手に入るし(かもしれない)
人生においての喜怒哀楽も天国と地獄も味わえる
全てがこれ一つで成り立っちゃうて
便利だよね。怖いよね。得るのも失うのも。
「目が覚めると」(一行詩)
寝違えてバイトに遅れる
◆
ふと目が覚めるとねこたま
◆
目が覚めると生きてるなぁ…
◆
群青の空の世界に目を奪われて
◆
異世界でもなく幻想世界でもなく 押し入れの中
「わたしの当たり前」
難しいよね。
社会的ルールに一般常識があっての当たり前。
その縛りの中で自分の当たり前なことが理解されるか否か。
Myルール・ルーティンみたいなものだと
理解して宜しいのでしょうか?
改めて「わたしの当たり前」と聞かれるとなんでしょうかね?
日常的生活においてそのようなものを設けてないと云いますか、
無自覚に近いので回りから云われて気が付くこともあるので、
「それ」が日常的行動における
「わたしの当たり前」の行動になるのでしょうか?