中学生の頃、部活の終わりだったか。梅雨明けを告げる雨がざあっと降った。私と部員たちは、何とか部室に駆け込み、そのまま屋根の下で雨宿りをした。
短いひさしの内に雨が入り込むも、妙に温かった。雨粒が、黄金色に輝く夕陽の光をひとつひとつ反射する。目に刺すような鋭い光だったが、生命に満ち溢れる力強さがあった。校庭の側にあった常緑樹の黒い影が、その黄金色の光をより映えさせる。砂埃が舞う校庭から湿った土の匂いがし、部室の裏にある木々の群生地からは草木の青臭さが薫る。
虹色に輝く大きな雨粒を眺めながら、私は夏が来たと高ぶった。極彩色の雨が、灰色の空と雲を青空と真っ白な入道雲に洗い流す。
15年以上前は、梅雨明けの最後の大雨に清められて、夏を迎えていたが、今はそのような体験を何度も何度も味わっている。ただ、どれだけ篠突く雨が降ろうが、完全に汚れきった雲を洗い流せない。子どもの頃に見た虹色の雨は、夢の中にでも蒸発してしまったのだろう。
いつかは、その虹色の雨がおとぎ話となって、昔日本には春と夏を繋ぐ梅雨という季節がありましたとさ、とおばあちゃんになった私が語る日が来るかもしれない。
(250628 夏の気配)
‘I Cannot Drown’を観た時の衝撃はなかなかだったが、日本以外で育った者が人魚を食す文化を知った時の驚きには敵わないだろう。
人間が食した海洋生物は、まだ一割にしか満たないらしい。その九割にいたであろう人魚をわざわざ海から釣り上げて、まな板に晒して包丁で切り刻み、永遠の命を得られると信じながら食す。この日本人の人魚への食欲は、冷静に考えれば異常である。
果たして、魚好きが高じた結果なのか。人魚は食べられると聞いて、私はどんな味がするのか気になって仕方ないので、もう正気には戻れない。
‘I Cannot Drown’の制作者は、もしかしたら、この食文化を案外素直に受け止めたかもしれない。製作者の嗜好には、もともと人魚がいた。なるほど、世界にはウジ虫に寄生されたチーズが存在するぐらいだ。人魚を食す文化だってあり得るという考えに至った可能性もある。
ただ、人魚を食べたという結果には、さすがに東西の環境で異なるようである。
東洋の感性からしたら、毒を持つフグや人間並みの頭脳を持つイルカを食しても満たせない食欲の執着から逃れようと、人魚を仏に見立てて食べたとしたら、侘び寂びのような静けさに包まれて浄土に向かえると思いつくだろう。
西洋は、神の言いつけを破って、一部鱗やヒレのない生き物を食べたことに罪悪感を持つ。事実、作品の主人公ウメは、自らの分身たちに罪の意識を呼び起こすような言葉を吐かれた。彼女の延々と歩む道には、江戸時代の農村や現代の車道、新宿の街並みの他にも、神に通ずる門があるのかもしれない。
ともあれ、アンデルセンの描いた人魚が、東方では食用として扱われ、かつ不老不死の食材として重宝されていると知った時の衝撃は、その東方の地に住む私には想像つかない。その衝撃に揺れ動く世界は未知の領域だ。それこそ人魚の肉を食べて生き長らえても、永遠に辿り着けないだろう。
(250627 まだ見ぬ世界へ!)
終わりつぐならば
蓮開く音
わが唇から
鳴りひびきもがな
(250626 最後の音)
指先から生まれた一粒の愛にも血潮一トン分ある。
その舌足らずな舌先でよく舐りなさい味わいなさい。
(250625 小さな愛)
夜空を見つめた瞳の記憶はあるが、
青空を見つめた瞳の記憶は無い。
青空は私の目を溶かしてくる。
見つめれば見つめるほどに青白く溶けていく。
青空が私の瞳に溶けたいと願った。
痛くてかなわないと私は瞼を下ろした。
(250624 空はこんなにも)