祖母の家にはよく遊びに行っていた。至る所で畳の匂いがする古い民家だった。玄関も、庭に面した廊下も小学生だった私にはまだ高くて、全身を使ってよじ登った。
その日もだだっ広い田畑の周りを走り回って帰ってきた。どこまで続くか走り続けて、走り疲れたのにまだ田畑が広がっていることに驚き、途端に怖くなったからだ。まるで私一人だけ取り残されたように。
血相変えて帰ってきた私は身振り手振りで事情を説明した。支離滅裂な言葉から内容を汲み取った両親と姉は大笑いした。私は笑われたことにムッとした。すると、頭をポンと優しく撫でられた。振り返れば、目尻を下げて笑う祖母の優しくて少し冷たい手が私の頭に伸びていたのだ。
「ちーちゃん、大人になったら旅をしなさい。もっと広くて素敵なところへ」
祖母がそう言った理由も、言葉の意味もちゃんと理解はしていなかった。けど祖母の柔らかい声に、私は心が温かくなった。
*
思い出は美化されるもの。
私は祖母の遺品を整理しながら、あの時の祖母を思い出そうとしていた。でも棺の中で横たわった青白い顔が脳裏に焼き付いていて離れない。
祖母との唯一の思い出だった。
幼いころから具合が良くなかった祖母は、生まれ育ったこの田舎町で生涯のほとんどを過ごした。朝起きて家事をして、家族の世話を焼いて就寝する。何十年も繰り返す日々の中で、祖母の楽しみはテレビの旅番組だったそうだ。
この田舎町の外には、素敵な世界が広がっている。
祖母は強く憧れた。でも移り住むことも、旅行で出かけることもなかった。ただ細く永く、生きるためだけにこの田舎町に止まった。
幼い私は、この祖母の家がすごく好きだった。自分の家よりすごく大きくて、くつろげると思っていた。
すっかり大人になった私は、幼い私の考えを否定せざるを得なかった。
畳の匂いは湿気ってしまってカビ臭い。よじ登った玄関も縁側も階段の一段と変わらない高さになった。どこまでも広がる田畑は車に乗ればあっという間に抜けてしまった。家族で団欒を過ごした居間は、家主が不在でどんより暗かった。
こんな場所に祖母が縛り付けられていたなんて。そう想像しては無性に泣きたくなった。
この家が素敵だと思い続けるには、外の世界を知りすぎた。
『懐かしく思うこと』
私たちの馴れ初めを
今度はあなたからの視点で語ってほしい
『もう一つの物語』
何で寝る前のスマホってやめられないんだろう
逆に眠れなくなってしまうことは分かっているのに
スクロールする手が止まらない
あ、ほら、もう朝日が
『暗がりの中で』
朝、紅茶を一杯飲むことは特に意味がないらしい。
栄養もカロリーもほとんどなく、カフェインを摂って目を覚まさせるならむしろコーヒーがいい。
「朝から好きなもんくらい飲ませろよ」
やかんで湯を沸かしながら、私は先日受けた産業医との面談を思い出していた。健康診断でどこか特別悪かったわけではない。ただ、ストレスチェックで引っかかっただけだ。
会社に促されるまま受けた面談は、産業医からの説法で終わった。やれ毎日ゆで卵食べろとか、筋トレして顔シュッとさせろとか。その中に紅茶は意味ないと言われたのだ。いかんせん途中から頭にきていたから、ほとんど話の内容を覚えてないんだけど。
ピューッと音を立てるやかんに気がついて、慌てて火を止めた。コンロからやかんを下ろし、ティーバッグの入ったマグカップに湯を注いだ。熱湯に触れた茶葉からいい香りが立ち込める。私は香りを嗅ぐように大きく深呼吸をした。息を吐ききった頃には、肩の力が抜け、心地良い感覚に浸っていた。
やりたいこと、やらなきゃいけないこと。仕事でもプライベートでも何かと忙しなかった。この忙しなさが年末まで続くのだと知ったのは、社会人になってからだ。気が抜ける時、休まる時は就寝時間を除いてほんの一部だけ。私にとっては紅茶を一杯淹れて飲む時間がそのほんの一部に含まれるのだ。
お湯に浸していたティーバッグを引き上げる。滴り落ちる雫をよく切り、ゴミ箱へと捨てた。紅茶の入ったマグカップをテーブルに持っていけば、今用意したばかりの朝ごはんが並ぶ。テーブルの前に腰を下ろして、目の前のテレビをつけた。朝のワイドショーでは野球の日本シリーズについてコメンテーターが熱弁していた。
テレビから目を逸らさないまま、マグカップを口に近づけた。紅茶の香りが鼻をくすぐる。よく息を吹きかけて口付けた。
「あっぢぃ!」
この後しばらくの間、上唇の火傷がヒリヒリと傷んだ。
『紅茶の香り』
「はい、もしもし」
「移りゆく 人の心 秋の空」
「……変わらぬ花に 恋慕う君」
「おお、君で間違いないね」
「電話のたびに毎回やってるけど一体何?」
「特に意味はないんだけど。おかげさまで作業が捗るよ」
「アイディア料いただいても?」
『愛言葉』
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「移りゆく人の心秋の空 変わらぬ花に恋慕う君」
(人の心って秋の空みたいに移り変わっちゃうものだけど、姿かたちの変わらない花があれば君は恋するんだろか)って意味になればいいのにと願って捻り出したお粗末短歌。