香水は空気中に吹きかけてそこを潜ると程よい量がつくらしい。
それでも私は鎖骨に少し、手首に少し。両手首を擦り合わせて、頸に擦り付ける。あまり香らないなと匂いに慣れて鈍った嗅覚を信頼して、ダメ押しでもうワンプッシュ鎖骨へ。今日は香水が私の武器だから。
いつも使うこの香水は、これからデートする相手に記念日のプレゼントとしてもらった。表参道に店を構えている老舗ハイブランドのロングセラー品だ。大人っぽいラグジュアリーな香りから、女性らしく甘い香りへと変化する。
私はこの香りが好きではない。好みで言うならシトラス系の爽やかで甘すぎない香りがいい。
でも好いた男は、この香水のような女性がタイプらしいから。そんな大人に見てもらえるようにという子供じみた願いも込めたのだ。
まあ、私は浮気相手側だったわけだけども。
あの男との前のデートでその事実を知った。ホテルのベッドで横になっていた時、ヘッドボードに置かれた男のスマホが短くバイブレーションした。男は寝ていたし、てっきり私のスマホかと思って手を伸ばした。
ロック画面には、まだ小学生にも満たない男の子の写真。メッセージの送り主は男と同じ苗字。長押しして読んだ内容は、残業する夫を心配する妻そのもの。
ああ、私この男に騙されたんだ。
男に対する熱意が一気に引いた。一体いつの間に冷却機能を搭載したのか、心が冷えていく。頭も冷静になって、視界はくっきりとクリアに。
私はその場から逃げ帰って、あれこれ考えた。あの男が奥さんと別れて私と結婚する可能性とか。結局それは一ミリもあり得ないのだけど。
それなら別れるしかない。確かに男のことは今も愛しているけど、それ以上にちっぽけなプライドが勝った。私を、女を馬鹿にして弄んだこの男を許して、共に歩むいつかを夢見るほど、子供じゃない。
今日のデートで別れを切り出す。待ち合わせ場所は駅前だから人目がある。今度二人きりになったら流されてしまうから、その前に男とケリをつけるのだ。
でもただ泣き寝入りみたいな別れ方はしない。浮気の痕跡を残してやろうと、香水を振り撒いたのだ。残り香が移るほど近い距離に女の影があると、奥さんに気がついてもらうためだ。
チャンスがあるなら、香水のボトルごと男の服のポケットに忍ばせたいが、そこそこ大きく重量もあるから気が付かれるだろう。あと考えていることは、男の服や持ち物に直接吹きかけることとか。逆上されたら目潰しにするとか。襲われそうになったら瓶の入ったカバンごと振り回すとか。
バッグの中に香水の瓶を入れる。かなりの重量で肩にかけたショルダー紐が少し食い込んで痛い。それも我慢して深呼吸する。頭がクリアになったところで玄関を出た。
三年間、私を騙した男へ復讐を。
『香水』
私はあなたの前から去ります。
さようならも、ありがとうも、ごめんなさいも。
全部いりません。
あなたの行く末に私がいなくとも
多幸に恵まれますよう遠い地で祈っています。
ご武運を。
『言葉はいらない、ただ・・・』
オイてめえ、どのツラ下げてきやがった。
ああん? ちょっと通りたいだけだと?
ならこんなど真ん中来るこたあねえよ。
西でも東でもおめえさんには道あるからな。
それとも何か?
まさか、おれのシマ荒らしに来たってんだい!?
そんなつもりはなかっだあ!?
今まで散々甚大な被害出しといてよく言えるな!
おめえさんのせいで一体どんな惨状だったか!!
ただの雨と風!?
その雨と風のせいで
山が削れて川が増水して
ダムが決壊して街に浸水して
突風が起きて屋根や車が吹っ飛んだんだよ!!
人間軟すぎる!?
おーおーよう煽りなさんなあすっとこどっこい!!
ってオイコラ!
言った側からやりやがって!
いい加減弱まりやがれこの野郎!!
オイ、オイ! 聞いてんのかコラ!!
待て……いやさっさとどっか行け風小僧が!!
『突然の君の訪問。』
視界不良で足元どころか全身ずぶ濡れの中
傘の隙間から黒い影が見えて
驚きのあまり飛び退いて傘を落としかけた
近所の野良猫だった
『雨に佇む』
202X年8月22日
今日は閉店間際にお客さんが来た。
この時点でいつも走って乗っている電車を逃して、乗り換え駅で三十分待つことが確定した。
お客さんはいいよね、ここが最寄りだもんね。
きっと一時間に二本あるかないかの電車社会を知らないんだ。
閉店五分前に「試着してもいいですか?」の申し出が。
「ダメです」なんて断ったらクレームものだからニコニコ笑顔を浮かべつつ試着室へご案内。
(心は穏やかじゃない)
お客さんが着替えいるうちに閉店のチャイムが鳴った。
試着室から出てきたお客さんが「八時まででしたよね?」と聞いてきた。
「このフロアは七時半までなんです」と困り眉にして伝える。
八時まで営業しているのは食品だけだった。
お客さんが試着した洋服を買うと言った。
モバイルのレジは閉じてしまったから、集合カウンターの大きなレジでお会計。
クレジットカードをお客さんへお返しして、まだ動いているエスカレーターまでご案内。(ご誘導)
照明がほとんど落ちた店内でソワソワ落ち着かないお客さん。
「遅くなってすみません」とさすがに謝ってきた。
私はニコニコ笑顔でお気になさらず、と気取って言う。
「これからだと八時には帰れますか?」
「(現在時刻七時五十分)……はい!」
本当はカウンターに残っている社員さんにお礼を言って売上レシートをもらって売上合わせて在庫確認して品出しして売上管理表の計算して残高表も計算して他店売上を聞きに行って全部会社へデータ送信して電気機器の電源を落として着替えないと帰れないけど。
説明が面倒くさいので流した。
お客さんを無事に見送って売場に帰る。
もう何もやりたくない。
最低限だけ済ませて、あとは明日早番の私に任せてしまおう。
本日も一日、お疲れ様でした。
202X年8月23日
クソが
昨日の私の馬鹿野郎
納品二〇〇点あったんだぞ
返品振り回しも合わせて十数点あった
それにプラス昨日の私の仕事なんざやってられっかこの野郎
次は電車何本乗り遅れてでも片付けろ
わかったかこのアッパラパーが
『私の日記帳』
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私の心の中にある日記帳より抜粋