窓の外では雨が振り続いている。
私は30分くらい前からずっと、頬杖をついて窓の外を見ている。
闇の色を滲ませている窓の表面を、絶え間なく雨粒が伝う。
同じように空から降り注ぐ雨粒だけれど、真っ直ぐに地面に落ちる雨粒と、風に煽られて窓を撫でるように落ちる雨粒とでは同じようで全然違うようにみえる。
今の私には。
深夜のファミレス。
人影が少ないこの時間帯に、私はテーブルの向かいに座る彼に呼び出された。
彼とはかつて会社の同期だった。
小さな出版社で昼夜平日休日問わず働いていた者同士だった。同じ案件を任されて一緒に行動することが多かった。忙しすぎて生活はグチャグチャだったけど、フォローしあってなんとか乗り越えてきた。
彼と私で違ったのは性別くらい。
仕事の内容を性別で差別するような会社ではなかったから、のびのび仕事が出来て、そこそこ出世もできた。
会社の人はみんな親切な人だったし、人間関係も上手くやれていると思っていた。
なのに。
ある日会社がある事情で大きな損害を出し、最終的には人件費を削除しなければ経営がたちゆかなくなる状況だった。
会社は当然まずは希望退職者を募ったが、希望者は出なかった。
そこでリストラの白羽の矢に立ったのが私だった。
30手前の独身女性だから?
わかってるよ。妥当なところだよね。
扶養家族もいないし。
悔しい。
本当に悔しい。
同じスタートラインに立って、同じように仕事をしてきて会社に貢献してきたのに、私は会社に捨てられた。
会社を去ってから1ヶ月。
失意のどん底で毎日を過ごしている。
「なんで私が?」って納得いってないこんな状況で前職の同期に会いたいと思う?
まぁ、嫌だったら来なければ良いじゃないかって思うけど。約束は彼の『お願い』から始まった。
先にファミレスに着いたのは私だった。
彼は数分後に、忙しくて何日も満足に寝ていませんというようなくたびれた姿で現れた。元々痩せている方なのに、ますます痩せたんじゃないの?
「それは私に対する当てつけ?」という言葉が喉元まででかかっている心理状態だったけど、さすがに我慢した。それで挨拶も早々に、私は本題を話すように促した。情けなくて早くこの場から立ち去りたかった。
彼の『お願い』は、仕事に関する相談だった。でもそんな話しは私よりも経験値の高いオジサマ連中に聞けば良かったんじゃないのかと思うようなことだった。
なんなんだろう。
イライラする。
「話が終わりなら、帰っていい?」
彼は本当に疲れた様子で引き留めた。その上で最近はどうしてるのか、何をしてるのかとか、根掘り葉掘り最近の私のことを聞いてくるから更にイラッとして、私は窓の方をずっと見ているのだ。放っておいて欲しい。
彼のことは嫌いじゃない。
むしろ好きだった。
彼と過ごした時間が本当に充実していた。
大切な時間だったからこそ。
こんな醜い感情で上塗りしたくない。
帰りたい。家に。
帰りたい。あの頃に。
ふいに涙が溢れそうになり、私は目線を窓辺に追いやって...今に至る。
少しの沈黙の後、彼が苛立ちを含ませて話し出した。
「天気の話なんてどうだっていいんだ。俺が話したいことは...」
(天気?天気の話なんて、私たち、してた?)
彼の方へスッと視線を戻すと、彼は真剣な面持ちでこちらを見ていた。目の下のクマが彼の事情を物語っているような気がする。彼は彼で必死で生きているのだ。
「お前が会社絡みで良い思いを抱いてないのはわかってる。でも、この1ヶ月で、俺にはお前の存在が必要だと、わかった...」
絞り出すような声に、私の気持ちが揺れた。
「そんな顔すんなよ、お前はそんなんじゃないだろ...辛いなら俺が支えるから、そばに居て欲しい...」
(あ~~イヤだ!)
(何故いつもこうなるの)
ただ、必死に走る私。何かから逃げるように。
視界は暗闇。
かまわない。ただただ遠くへ行きたい。
出来るだけ遠くへ。
キーン、コーン、カーン、コーン.....
「はっ...!!!」
チャイムが耳元で響き、優姫(ゆうひ)は瞬時に机の上で伏せていた顔をあげた。
目の前には濃いセピア色がかったいつもの教室の風景が広がっている。
(ああ、そうですよ。逃げられないんですよ)
頭に現実の事情がさらさらと蘇って、優姫はウンザリする。
ここは高校の教室。
窓側の一番後ろが優姫の席だった。
今日は放課後に委員会があった。決め事があるからと部活を休んで委員会に出席した帰りだった。それがこうして自分の教室に戻って逃避行動ができるだけの時間の余裕が出来たのは、委員会での決め事が予想以上に早く片付いたからだった。
『委員会、終わった?』
ピロリン。
左手に握りしめたままのスマホが鳴った。
画面に十夜(とうや)の名前とメッセージが表示される。
十夜は春先から付き合い始めた優姫の彼氏。
サッカー部のエースである彼。いつもならまだ部活に勤しんでるはず時間。どうしたんだろう。珍しい。
驚きつつも、すぐさま返信する。
『終わった。最悪だよ(´・д・`)』
さらに食い気味に返信が来る。
『終わったなら帰ろう。下で待ってる』
こちらの話への返信もそこそこに、催促があるということは、彼はもう、もしくはそろそろ下駄箱のところに居るということだ。
優姫は、机の右側にかかったカバンを肩に掛けながらコンパクトミラーを取り出した。慌てて髪型を整えて立ち上がり、短めのスカートを翻して教室の後ろのドアへ掛けよった。
それかは優姫が自分の下駄箱のところに着いたのは、教室を出て1分後のことだった。
「お、お待たせ...」
少し息を弾ませてやってきた彼女を、下駄箱の足元で座り込んで待っていた十夜が見上げた。割とガッチリしているが、切れ長で綺麗な目をしている彼にドキッとする。
「お~お疲れ」
Yシャツの前が大きくはだけたままの十夜が立ち上がる。部活上がりでまだ体が火照っているのだ。十夜に近づくとその汗の匂いの中にほんのり制汗剤の香りが混じっている。
「部活、終わるの早かったんだね」
上履きからローファーに履き替えながら優姫が言う。
平日の放課後はお互い部活や委員会、さらに塾があるので会うことが難しい。その分メッセージや電話でコミュニケーションをとって、用事がない土日に外で会うことが多い。だからこうして校内で待ち合わせが出来ることが稀で、優姫は純粋に嬉しいのだった。
「夏の大会が近いから、あんまり無理しないようにだとさ」
確かに。
今日は午後から日差しが強い上に暑かった。
「...そっか」
優姫は十夜の左隣に立って、立ち止まったままの彼の横顔を見上げた。行かないの?、と。
「何か飲み物持ってね?喉乾いた...」
優姫は首を振る。
「さっきペットボトル飲み終わっちゃって...」
十夜は何も言わずにうーんと考え込むような振りをした後、優姫の方を見てボソッと切り出した。
「ちょっと寄り道しねぇ?」
昇降口を出ると、セピア色の空はどこへやら、すっかり日が暮れていた。視界の遠くに星が光っている。
十夜の寄り道の提案を優姫が断るわけがなかった。親に少しだけ帰宅が遅くなるメッセージを入れて、先を歩く十夜についていく。校門出たし、手を繋いで良いだろうか...迷いながら右手で十夜の左腕に触れる。
「帰りは送るよ」
十夜は左腕にかかった優姫の手を、するっと軽くかわして左手で受けた。ガッチリ恋人繋ぎ。シチュエーションが違うだけで何故こんなにドキドキするのだろうか。
少しの間、沈黙が続く。十夜も無口な方ではないけれど、今日は心なしか口数が少ない気がする。部活の後だから疲れているのだろうか。
学校から最寄駅までの途中にファミレスがある。
もう少し歩いた先にこのファミレスよりも低価格帯のハンバーガーショップがあるために、このファミレスはなかなかの穴場なのだった。
十夜は何も言わず、優姫の手を引いたままファミレスに入る。