ハエになってでも、空を飛ぶ。
子供の頃、別れはもっと単純だった。
昔、私の家の近くには、よく行った生物園があって、そこにいるオオサンショウウオが私はお気に入りだった。
そこに行くたびに、私はそいつに会いに行き、しばらく物見したあと、「またね!」と告げて立ち去る。
彼は当然人間の言葉なんてわからないし、ほとんど目も見えていないらしいから、私のことなど頭の片隅にもないだろう。
それに、彼はいつも岩陰でじっとしていて、まともに動いたところなど私は見たことがない。
そんな一方的な出会いと別れで、でも、それに私は満足していた。
そう、それが幸せだったんだ。
駅前の銅像、そば屋の前のタヌキ、公園の大きな桜の木にさえ、出会いがあって、別れがあった。
それがいつの日にか、道に咲く花はただの花になって、駅前の銅像はただの目印になっていた。
子供の頃、別れはもっと単純だった。
それは私が「今」を生きていたからだ。
先のことなんて考えずに、今、この瞬間、誰かと会えることの愛おしさを、感じていたからだ。
それが会えなくなることを知り、悲しみを知ってしまってから、私は先のことを恐れて、そればかりを恐れて、「今の愛しさ」を忘れてしまっていた。
別れることは、辛くて、さみしくて、怖い以前に、
「出会いの因果」なんだ。
だから、別れがあるということは、私たちが出会ったという証なんだ。
銅像だって、花だって、人間だって同じだ。
どうか、別れさえも祝福できるような、大人になれますように。
P.S. 作り話です
泣いてる人の姿は滑稽だ。
愚かで、身勝手で、情けない、無様な姿だ。
だから、人前では絶対に泣いてはいけない。
それが、私が泣くことを最も恐れている理由だ。
みんなが見るんだ。
鬱陶しそうに、興味深そうに、憐れんだ目で、見るんだ。
人は美しいものだけをみていればいいじゃないか。
空があって、星があってこの広い世界があるはずなのに。
なのに、なんで私を見るんだ。
大きさを競うものじゃないだろ、幸せって。
幸運も不運も、風のいたずら。
死ぬも生きるも、風のいたずら。
奇跡はたまに人を生かすけど、
多分何処かで、同じ数だけ殺してる。