渋柿

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子供の頃、別れはもっと単純だった。
昔、私の家の近くには、よく行った生物園があって、そこにいるオオサンショウウオが私はお気に入りだった。
そこに行くたびに、私はそいつに会いに行き、しばらく物見したあと、「またね!」と告げて立ち去る。
彼は当然人間の言葉なんてわからないし、ほとんど目も見えていないらしいから、私のことなど頭の片隅にもないだろう。
それに、彼はいつも岩陰でじっとしていて、まともに動いたところなど私は見たことがない。
そんな一方的な出会いと別れで、でも、それに私は満足していた。
そう、それが幸せだったんだ。
駅前の銅像、そば屋の前のタヌキ、公園の大きな桜の木にさえ、出会いがあって、別れがあった。
それがいつの日にか、道に咲く花はただの花になって、駅前の銅像はただの目印になっていた。

子供の頃、別れはもっと単純だった。
それは私が「今」を生きていたからだ。
先のことなんて考えずに、今、この瞬間、誰かと会えることの愛おしさを、感じていたからだ。
それが会えなくなることを知り、悲しみを知ってしまってから、私は先のことを恐れて、そればかりを恐れて、「今の愛しさ」を忘れてしまっていた。
別れることは、辛くて、さみしくて、怖い以前に、
「出会いの因果」なんだ。
だから、別れがあるということは、私たちが出会ったという証なんだ。
銅像だって、花だって、人間だって同じだ。

どうか、別れさえも祝福できるような、大人になれますように。





P.S. 作り話です

3/31/2025, 2:45:54 PM