【落ちていく】
ようやく泣けた
本当に泣けた
今までの悲しみや苦しみが
とめどない涙とともに
遥か彼方へと落ちていく
やがて涙は穏やかに流れ
私は静かにその川を渡る
この先に続いている
あたたかい光の射す方へ
【どうすればいいの?】
父親が大のジャイアンツファンだった俺は、小さい頃から野球が大好きだった。大学でも野球部に所属し、パワーヒッターとしてチームメイトからも信頼されていた。
2年下の志摩谷は、俺が打撃練習のときには必ずバッティングピッチャーを買って出てくれた。お互い呼吸が合うのか、練習のパートナーとして彼は最適だった。
ところが、今シーズン最初の練習でアクシデントが起きた。運悪く、志摩谷の投球が脇腹に当たってしまった。
その後の診断で、肋骨にヒビが入っていることがわかった。この事実をそのまま伝えたら、おそらく彼はボールをぶつけた自分自身を責めるだろう。そう思った俺は、監督だけに怪我の報告をして、他のメンバーには言わないでほしいと伝えた。
ところが、シーズン最終戦を終えた後のミーティングで監督が口を滑らせた。
「いや〜、皆本当によく頑張ってくれた。特に神原はあの怪我の中…」
「しまった」という表情で、監督が一瞬こちらを見たが、何事もなかったかのように「今日もいい試合だった。来シーズンも頑張ろう!」と自身の挨拶を締め括った。
他のやつが「何で言ってくれなかったんだよ〜、水くさいなぁ〜、もぉ」と戯れてくる中、志摩谷だけは離れた場所で明らかに不機嫌な顔をしていた。そして、チームメイトがあらかた帰って俺と志摩谷の2人きりになったところで、彼は怒りを爆発させた。
「どうして教えてくれなかったんですか、そんな大事なことを‼︎」
目に涙を滲ませながら、志摩谷は俺を責めた。後輩の僕じゃ言っても頼りにならないと思ったのか、なぜ信頼してくれなかったのか、と次々たたみかけるように言葉を浴びせ続けた。
「黙ってないで何とか言ったらどうなんですか⁈」
一気にそこまで言うと、彼は一旦呼吸を整えるように深呼吸を始めた。俺はそのタイミングで、彼に話し始めた。
「…あのな、志摩谷。俺はお前と違って、そう次々にポンポンと言葉が出てくるタチじゃないんだ。今からちゃんと説明するから、少し時間をくれないか」
俺は、水を一杯飲んで気持ちを落ち着けた後、言葉を続けた。
「怪我のことを言わなかったのは、皆を信頼していなかったわけじゃない。大事な試合を控えたタイミングで、余計な心配をかけたくなかったし、変に遠慮されるのも嫌だったんだ。特にお前は、あのときの練習パートナーだったから責任を感じて自分を責めてしまうんじゃないかと思って言えなかった。でも、結果的にはお前を傷つけてしまったな。すまない」
志摩谷は黙って俺の話を聞いていた。
まだ、怒りは収まってはいないだろう。
「なぁ、志摩谷。いったいどうしたら、俺のことを許してもらえるのか、教えてほしい」
すると、あれほど勢いよくまくしたてていた彼が小声でボソボソと答えた。
「…して…ほしい…です」
「え? 今、何て言った?」
すると、志摩谷は声のボリュームを一気に上げた。
「だからっ‼︎ 友達になってほしいって言ったんですっ! 友達だったらお互い何事も隠さず言えるだろうし、相手に何かあったらすぐ飛んでいけるしっ!」
いつの間にから、彼の顔は真っ赤になっていた。2コ上の先輩に提案するには、彼なりにも勇気がいったことだろう。それだけ、彼は本気で俺のことを心配してくれていたのだ。
「うん、わかった。じゃ、友達になろう。これからは、何かあったら遠慮なくお前に知らせるし、お前から知らせがあればいつでも飛んでいく」
そして、両手を差し出し彼に握手を求めた。彼は素直に両手を出して力強く俺の手を握った。そのタイミングで俺は彼の名を呼んだ
「これからもよろしくな、和也」
一瞬「えっ」という表情を浮かべた志摩谷和也は、すぐに握っていた手を振り払った。
「いくらなんでも、急に距離詰めすぎです‼︎」
そう言って、その場から走り去ってしまった。
ったく、だったらどうすりゃいいんだよ?
ため息をつきながらも、あの少々不器用な後輩と友好的な関係になるためにはどうしたものかと既に考えを巡らせていた。お互いが名前呼びになり、ひとつ屋根の下で暮らすようになるのはもうちょっと後のことだ。
【宝物】
一回り以上歳の離れた彼とは、知人からの紹介で知り合った。初めて会うことになったとき、彼はニコッと笑って自分の職業を「音楽屋です」と言った。このとき、既に彼の作った音楽はCMやドラマの主題歌として起用され、広く世に知られていた。私は世間に疎くてまったく知らなかったのだが、かえってそれが彼にしてみれば新鮮だったらしい。
「僕と家族になりませんか?」
お付き合いを重ねて3年目の誕生日に、彼からプロポーズされた。目の前でひざまずいてバラの花束を差し出す彼は、ものすごくキザでカッコつけだった。が、一方で気負いなく自然体の笑顔を向けられ、気がつけば私は「はい」と答えていた。
結婚してから、私へのバースデープレゼントはそれまでのアクセサリーから「音楽」へと変わった。毎年毎年、いわゆるバースデーソングというものを私のために作ってくれた。決して世の中に出回ることはない、私と彼しか知らない曲が増えていった。
贈られたバースデーソングが10曲を超えようとするころ、私はあることに気がついた。毎年、まったく異なるストーリー展開の歌詞の中で必ず登場する共通の言葉があるのだ。
『心配ないよ 君は大丈夫』
「ねぇ、どうしてここの歌詞だけ毎年同じなの?」
彼に聞いてみると、彼は初めて会ったときと同じようにニコッと笑ってこう言った。
「あれはね、僕と離れているときも、君が笑顔で幸せに暮らせるようにっていうおまじないです」
去年、彼は私の手の届かない、遠い遠い場所へたった1人で旅立ってしまった。もう、私新たなバースデーソングを聴くことはできないんだなぁ、と思いながら今日の誕生日を迎えた。
ピンポーン
と玄関のチャイムが鳴り、私宛に荷物が届いた。送り主の欄には、彼の名前があった。慌てて開けてみると、中には手書きの楽譜とカセットテープ、そしてメッセージカードが添えられていた。
「お誕生日おめでとうございます。今年もまた君を想い、バースデーソングを作りました。気に入ってくれたら嬉しいです」
事前に彼が準備していたものを、確実に私の手に渡るようにと彼の仲間たちが奔走してくれたことを後になって知った。私は、送られたカセットテープをカセットデッキの中に入れた。
流れてきたのは、美しいメロディーを奏でる彼のピアノと歌。歌詞には、やっぱりあの「おまじない」が入っていた。しかも今回は、繰り返し歌っている念の入れようだった。
…うそつき
夕飯のカレーを作りながら、私は思わず呟いた。玉ねぎはとっくに切り終わっているのに、涙が止まらないのだ。送られたテープは何度も聴き、さらには今までもらったバースデーソングをすべて歌いながら作っているというのに。
それでも、彼と過ごした時間や音楽をはじめ共有できたことすべては、私にとって宝物だった。彼を失った今も、私は多くの宝物に守られている。涙を流し続けながら、今の私がひどく幸せであることにようやく気がついた。
その夜、私は彼がくれたメッセージカードに返事を書いた。
うそつきなんて言ってごめんね
今までも 今も これからもずっと
私の1番の宝物はあなたです
心配ないよ 私は大丈夫!
【はなればなれ】
たとえはなればなれになっても
いつかはまた会えると思ってた
それなのにどうしてあなたは
早すぎるほどのスピードで
手の届かない遠い遠いところへ
誰にも告げずたったひとりで
旅立ってしまったんだろう
今はもう痛みとか苦しみとか
悲しいことすべてにさよならして
穏やかな気持ちになっているのかな
そうであってほしい
たとえはなればなれになっても
あなたの音楽はずっとここにある
歌も 言葉も メロディも 声も
もう新作が聴けないのは残念だけど
手を伸ばせばあの時のあなたに会える
きっとこれからも私は
あなたの音楽に支えられて生きていく
素敵な宝物をいくつもいくつも届けてくれて
本当にありがとう
心は、はなればなれじゃないから
これからも大切に想い続けていますよ
そしてあなたの音楽を聴き続けます
だから…おやすみなさい、KANさん
【子猫】
コハルちゃん
初めて会ったどしゃ降りの日、あなたは私をこう呼んだ。そして、小さかった私を拾い上げ、部屋に招き入れてくれた。濡れた身体を丁寧に丁寧に拭いてくれた、優しいあなた。もしも私が子猫じゃなくて、あなたと同じ姿だったら迷わずハグしていたと思う。
コハルちゃん
日を追うごとに、あなた以外の人から呼ばれることが増えた。あなたの友達、お仕事の仲間、離れて暮らすご家族や親しくしてくれるお隣さん…みんなあなたのことが大好きだった。だから、私にもすごくすごく優しい人たちばかりだった。
コハルちゃん
そう呼んでくれる人が1番多く集まったのは、あなたのバースデーパーティー。部屋には大勢の人達が入れ替わり立ち替わりに訪れた。私も名前を呼ばれ、時には抱き上げられ、頭を撫でられた。そして「彼女のこと、これからもよろしくね」と耳元で囁く人もいた。
この日、パーティーを主催してくれたのはあなたの大親友のカコちゃん。部屋にお泊まりした彼女とあなたが楽しそうにおしゃべりしている。そして、初めて知った。
私と会ったあのどしゃ降りの日、あなたは病院でお医者さんからあまりにも短すぎる自分の余命を告げられた。その帰り道、雨に濡れてブルブル震えていた私を抱き上げ、こんな状況で生き物を飼うのは無責任だと思った。でもこの子猫がいてくれたら明日も頑張って生きられる。そう思ったから、部屋に連れ帰ったのだと。
「じゃあ、また明日。おやすみコハルちゃん」
あなたが私の名前を呼んでくれたのは、これが最後だった。翌日、なかなか起きないあなたの身体をカコちゃんが大きく揺らしている。少し微笑んだような表情を浮かべたあなたは、2度と目を覚ますことはなかった。カコちゃんは、長い間声を上げて泣いていた。そして、少し落ち着くとあなたの頭を撫でながら「おつかれさま、小春ちゃん」と言った。
…コハルちゃん、コハルちゃん
そう呼ばれて、私は顔を上げた。どうやらうとうとして、ずいぶん昔のことを思い出していたらしい。
今の私は、人間でいえば80〜90代のおばあちゃん。あなたが亡くなった後、私はあなたのお父さんお母さんの家に引き取られた。さっき、私を呼んだのはあなたのお母さん。娘と同じ名前がついた私のことを、いつも愛おしそうに呼んでいる。
私の日々の暮らしは、あなたの部屋にいたころと何も変わらない。美味しいエサをもらって、時々遊んでもらって、眠りについて…もうあなたには会えないけれど、あなたを知る人たちが今でもこの家を訪れて私の名前を呼んでくれる。
あなたの家族にしてくれて、ありがとう。
あの日からずっと、私を幸せにしてくれて
ありがとう、小春さん