【愛を叫ぶ。】
私、東雲初芽(しののめはじめ)はクラス担任の鈴木先生から「しののめめ」と呼ばれている。入学したときから卒業を間近に控えてもなお、顔を合わせるたびにこう呼ばれては生徒から集めた課題のノートやプリントを準備室まで運ぶよう命じられた。
「先生、「しののめめ」って呼び方、何か恨みがあるようにしか聞こえないんですけど。『おのれ、××め』って親の仇みたいな。もう、卒業も近いしそろそろやめてもらってもいいですか」
「別にいいじゃん、呼びやすいんだし。お前、もうすぐ卒業だろ。じゃあ、今更変えることないじゃんか」
「でも、「しののめめ」って東雲より一文字多いんですよ? クラスのみんなは『めめ』って呼んでくれるし」
「いいんだよ、別に。俺は友達じゃなくて「先生様」なんだから」
最後はジャイアンみたいなことを言って、結局呼び名は変わることなく卒業の日を迎えた。なんだかんだで3年間の高校生活で最も関わりが深かったのは鈴木先生だったので挨拶しようとするも、常に他の卒業生たちに囲まれていて話せそうにない。諦めて校舎の外に出ようとしたそのときだった。
「東雲!」
振り返ると、そこには鈴木先生の姿があった。先生が私の苗字を正しく呼んだのは、このときが最初で最後だったかもしれない。
「卒業おめでとうな!」
先生は笑顔でそう言って、私の頭に手を置いた。
先生、本当はあなたが好きだと伝えたかった。あなたと過ごす時間が何より大切だった。この先も、ずっとずっとこの想いは変わらないと言いたかった。「先生と生徒」という関係でなかったら、伝えたい想いはたくさんあるはずなのに。
「先生、3年間見守ってくださってありがとうございました」
こぼれそうになる涙を必死で抑え、こう言って一礼するのが精一杯だった。
「そのままでいろよ、東雲。じゃあな」
先生はそう言うと、後ろ向きで右手をヒラヒラさせながら校舎へと戻っていった。
その後、大学を卒業した私は縁あって母校の図書室で司書として働き始めた。鈴木先生とは「先生と生徒」から「先生と先生」になり、今では「家族」として共に暮らしている。仕事上は旧姓を使っているが、結婚して苗字が変わったのは夫である先生の方だった。
「だって東雲ってカッコいい苗字じゃん」
それが、夫が改姓した最大にして唯一の理由らしい。
「その割に、ちゃんと苗字呼んでなかったじゃない。いっつも「しののめめ」って」
「いや、あれは、つまり、その…だな」
どうにも歯切れが悪い。気になって問い詰めると、ようやく白状した。
「他とは違う、俺だけの呼び名でお前のことを呼びたかったの!」
初めて知った。あのときから、あなたは私を呼ぶたびに愛を伝えていてくれたんだ。今、耳まで真っ赤になっている先生の隣でそっと囁いた。
「ありがとう、マコトさん。大好きだよ」
【モンシロチョウ】
「とおしゃん、みてみて! かあしゃんのちょうちょ、いるよ!」
そう言って、ハヤトが庭先でひらひらと舞うモンシロチョウを指差した。
「ぼくのおべんとぶくろといっしょだ!」
嬉しそうにはしゃぐハヤトの手には、菜の花の周りを舞うモンシロチョウを刺繍した手作りの弁当袋が握られている。ハヤトの母、つまり僕の妻チハヤが彼に遺した唯一のものだった。
我が子を身籠ったとき、チハヤは既に自分の生命が長くないことを知っていた。それでも彼女は僕の目を真っ直ぐ見つめてこう言った。
「私、この子を産みたい。自分の生命と引き換えになっても、縁あって授かったこの命を守りたい」
覚悟を決めた彼女を前に、僕がそれを止められるわけもなかった。彼女は無事にハヤトを産み、2年という限られた時間をともに過ごした。
ハヤトが生まれて間もなく、チハヤはあの弁当袋を作り始めた。もともと超がつくほどの不器用さで裁縫の類いは避けて通ってきたという。
「でも私、この子が幼稚園に行くころはもういないから。せめて、私が母としてできることを1つでも遺したいの。モンシロチョウって、幸運を運ぶといわれてるんだって。ハヤトにも、幸せがたくさん運ばれてるようにいっぱい刺繍しないとね」
そう言いながら真剣な眼差しで刺繍する彼女は、苦手なことのはずなのにとても嬉しそうだった。こうして彼女の想いがつまった弁当袋は、この春幼稚園に入園したハヤトの手に渡ることとなった。
後から知ったのだが、モンシロチョウはこの世を去った者が姿を変え、ひらひらと舞いながらこの世に生きる者たちを見守っているとも言い伝えられている。おそらく、チハヤはそれも知っていたことだろう。
そういえば、ハヤトが幼稚園に行くようになってから庭先でモンシロチョウを見かける機会が増えた気がする。もしかすると、あれは…
「とおしゃ〜ん!」
ハヤトの声にハッと我に返った。そろそろ幼稚園に行く時間だ。今日もまた、あのモンシロチョウ達が彼を見守ってくれることだろう。
【忘れられない、いつまでも。】
「すみません、それをください」
自分の親より遥かに年上のその男性は、店に入るなりある商品棚を指差した。
「いらっしゃいませ。ありがとうございます。どちらの商品でしょうか?」
「それです。青い縞の、太めの、それ」
男性が指差していたのは、数万円はする高級万年筆。この店で長く働いているが、これほどの高額な商品を入店直後に指定する客は見たことがなかった。
「スーべレーンですね。かしこまりました。今、ご用意いたします」
私は木製のペントレイを取り出し、男性が指定した青縞の万年筆を乗せた。誰もが一度は持ちたいと願う憧れの逸品。それを目の前にして、男性は心底嬉しそうだった。
「あぁ、これでやっと願いが叶う。実はね、この買い物は妻へのプレゼントなんですよ」
そう言うと、男性はちょっと長くなりますが…と前置きして話し始めた。
「妻と私はね、新聞の一面に載っているコラムを半分ずつ書き写しているんです。前半を私が書いたら後半を妻が書き、翌日は前半が妻で後半が私というようにね。もう、そんなことを10年以上毎日続けていて、最近妻が言うんですよ。ここまで長く続けられてるんだから『2人ともよく頑張ってるで賞』が欲しいねって。そんなときに、たまたま新聞でこの万年筆のことを知ってね。見た目が綺麗だし書き心地も良さそうだし、すぐこれだって決めたんです」
素敵なご夫婦のエピソードに、胸が熱くなた。なるほど、だから最初から「決め打ち」だったのか。
「あの、差し支えなければ教えていただきたいんですが、書き写しを始めるきっかけは何かあったんでしょうか?」
「東日本大震災です」
男性は静かに答えた。
「震災直後は新聞もテレビも震災一色で、なかなか直視できなくてね。1年経ってようやく「あのとき新聞やテレビは毎日どんなふうに震災を伝えてたんだろう」って冷静に考えられるようになったんです。それでも、長文の新聞記事や直接的な映像はまだ受け入れることが難しくて。そんなときに、新聞紙上で毎日同じ字数で異なる話題を提供しているコラムの存在を思い出したんです。最初は1人で始めたんですが、半分書くのがやっとでしてね。それで、見るに見かねた妻が残り半分を書いてくれるようになった、というわけなんです」
「そうですか…教えていただいてありがとうございます。このペンはインクがとても多く入りますし、書き心地も良いので長く書いていても疲れにくいです。きっとご満足いただけると思います」
その後、実際にインクをつけて男性に試筆してもらった。
「本当に書きやすいねぇ。今でも使っていた安いものとは全然違う。これなら、10年先20年先も使っていけそうだ」
男性は、遠い未来の自分と妻の姿を思い浮かべているようだった。そして、よほどお気に召していただけたのか、プレゼントと言いつつも「たまには俺にも使わせてくれないかなぁ」と呟いていた。
「お買い上げありがとうございます。ぜひ奥様と楽しんでお使いください」
「こちらこそありがとう。存分に楽しませていただきますよ!」
男性は商品の入った袋を掲げてニッコリ笑った。そして、深々と一礼して店を後にした。
今でも、万年筆を手に取るとあの男性のことを思い出す。きっと今もご夫婦で幸せを分け合っていることだろう。
【一年後】
えっ、何これ。街頭アンケートってやつ?
「一年後のあなたは何をしていますか」って…
ダメダメ、ダメだよこれ。
だって俺、余命半年だからさ。
さっきまで病院にいてね。定期検診ってやつ。ちょうど半年前に余命宣告されてんのよ、俺。だから、ホントは余命ゼロってことになんのかな。
病院の先生が言うには「良くも悪くもなってないから、今のところは現状維持。でも、いつ何が起こってもおかしくない」んだって。
それまでもね、どうも調子が悪かったんだよ。でも、仕事あるから毎日騙し騙しやってきてさ。半年前にね、健康診断で再検査って言われて、仕事が休みの日に病院行ったの。それが、ちょうど半年前の今日のことだよ。
仕事? 今も続けさせてもらってるよ。上司が理解のある人でさ。病気のこと、伝えた時にまず言われたのが「君はどうしたい?」って。
「もちろん、辞めるって選択肢もあるけど、君が今までどおり仕事を続けたいと思ってくれるなら僕は全力でサポートするよ」って。
「君がしたいようにすればいい。一緒にこれからのこと考えよう」って言ってくれたときは嬉しかったなぁ。この職場で、この上司と出会えてホントよかったって思ったよ。
うん、もう家族にも親友にも話してある。なかなか切り出せなくって、時間ばっかりが過ぎちゃったけど。家族より先に、幼稚園から一緒にいるダチに話したんだ。
「とにかく誰かに相談したい」って思ったらそいつの顔が浮かんできて。全部話した後で「迷惑かけてごめん…」って言ったら、めっちゃくちゃ怒られて。
「そういうこと、二度と言うなよ⁉️ 俺がお前とどんだけ一緒にいると思ってんの。迷惑だったら、とっくに縁が切れてんだろ、フツー」って。
さんざんブチ切れた後で「でも、言ってくれて嬉しいよ」ってさ。「嬉しいけど…嬉しいけど、何でお前なんだよ。悔しいよ。俺ヤだよ、ヤなんだよ…」ってだんだん声が詰まってきて。
結局、いい年こいたオッサン二人でその日は一晩中泣き明かしたよ。しかし、ありがたいことだよな、こういうダチがずっと近くにいてくれてさ。
でもさ、何が起こってもおかしくないんだったら、また一年後も同じように何事もなく暮らしてる可能性だってあるんだよね。そうしたら、またここで街頭インタビュー受けてたりして。「一年後のあなたは何をしていますか」ってね。
一年後かぁ…
まだ生きてたいよね、うん。
【初恋の日】
違う。
あたし、あの日からずっとあなたに恋してるんだ。
憧れだとかファンだとか、そんな言葉で誤魔化して自分で自分の心を見えなくしてた。何年も何年もかかってしまったけど、やっと気づくことができた。
私にとって、あの日は
間違いなく「初めて恋が始まった日」だったんだ。