大晦日だ。今朝、通勤電車の窓越しに見えた雪化粧をまとう木々は、既に日が沈んだ今、もこもこした雪に覆われて遠くの山に姿を隠してしまった。
ピンポーン。ピンポーン。
聞きなれた電車のベルが鳴り、最寄り駅のホームに足を踏み入れた。会社を出る時に「良いお年を」と同僚たちと言い合って別れたものの、私はいつもと至って変わらぬ夜を過ごし、明日を迎えるつもりでいる。
賑やかな駅前から遠ざかり、あちこちの窓ににじむ灯りを横目に見ながら住宅街を歩く。帰省しないのか、と数日前に家族から連絡が入ったけれど、仕事があるのを言い訳にして断ってしまった。
嘘はついていない。でも、些細な諍いがすぐに喧嘩に発展するあの家に帰らなくていいことに安心している私もいる。言い合いをただ聞いているだけだとしても、感情をぐちゃぐちゃに掻き乱されて気が休まらないのだ。幼い頃から、両親が休みになる年末年始はあまり好きではなかった。
部屋の鍵を取ろうとずっと付けていた手袋を外し、鞄の中を探る。突然冬の空気にさらされた手がみるみるうちにかじかんでいくのを感じながら、いつの間にか鞄の底に沈んでいた鍵をようやく探し当て、いそいそと部屋の中に入った。
今夜は温かいものにしよう。蕎麦はないが、パックのうどんがひとつ残っていたはずだ。
冷えきった部屋がわずかに暖かさを取り戻した頃、うどんのつゆを温め終わるともう22時を回っていた。
目的もなくテレビをつけ、出来上がったうどんをすすりながらスマホに目を落とす。音楽番組を聞き流しつつ、つらつらとSNSのおすすめ欄を眺めているうちに時間は溶けていった。
ピコーン、という通知音とともにスマホの上部に「HAPPY NEW YEAR」の文字が現れて、我に返る。送り主は友人だ。すかさずこちらもスタンプを送り返す。すぐに既読はつかない。ストーリーに神社らしき写真が上がっていたから、誰かと初詣にでも行っているのだろう。テレビのリモコンを手に取ってチャンネルを変えた。
明るい音楽とともに画面を埋め尽くすカラフルな衣装を着たアイドルたちに目をやりつつ、夜中だというのにみかんに手を伸ばしてしまう。
今日くらい、今年くらい、いいだろう。なんの刺激もない、穏やかな夜にこのまま包まれていても。みかんを一切れ口に放り込んで、ふっと小さく息をついた。
【良いお年を】
どれだけ広いものなのか、はたまたとてつもなく狭いのか、そこを歩く自分にはわからない。
見逃した道、執着した道、二度と通らないと決めた道、知っているのに知らないふりをして避けた道。
あれは迷路だったと、ひたすら迷った後で気づくのだ。
【心の迷路】
誰かと無理をして繋がる必要はない。
心の境界線を越えるには、覚悟と時間が必要だ。
自分の手の内をさらさなければ見えないものがきっとあるから。
ただ、たとえ足を踏み入れるのを諦めても、向き合うことをやめたわけではない。
そこに優しさがあるならばそれでよいのではないか、とも思う。
【心の境界線】
【キンモクセイ】※随時更新中
「このあたりでは珍しい、薄橙の色をした小さな花を枝という枝に咲かせる木があるのです」
侍女のお常が山の方からほのかに漂ってくる甘い香りに目を細めながらお初にそう話してくれたのは、昨日の晩のことだった。今朝もそよ風に乗ってどこかから運ばれてくるその匂いを感じながら、どんなに綺麗な花を咲かせるのかしらと、お初は見たこともないその花にひっそりと思いを寄せた。
城の中庭に面した縁側から見える青い空には、今日も今日とてふわふわとした雲がゆったりと浮かんでいる。口に入れたら今にも溶けてしまいそうな雲の行方を追いながら縁側の端に腰かけて足をぶらぶらさせていると、廊下の方からばたばたという足音が聞こえてきた。お初よりも五つ年の離れた兄が午前の稽古から戻ってきたのだ。
お初は咄嗟に立ち上がって、物音のする方へ駆けていった。元服を間近に控えいっそう学問や武術に励んでいる兄とは昔のように時間を忘れて遊ぶことはなくなってしまったけれど、美しい花を咲かせる木の話をすればきっと一目見たいと目を輝かせてくれるはずだ。
「兄上!」
首元にかけた布で額の汗を拭っている兄に後ろから声をかけると、少しだけ大人びた顔がこちらを振り向いて、ああお初か、と呟いた。以前よりも一段と落ち着いて、いささか鋭さをはらんでいるようにもみえる兄の眼光にお初は少しばかり戸惑いを感じながらも、意を決して口を開いた。あの山の中腹にあるという、薄橙色の花を咲かせる木のことを知っていますか。胸に期待を膨らませながらそう言ったものの、兄から返ってきたのはお初が想像していたのよりあまりに淡白な言葉だった。
「知っている。あれは木犀というのだ。もし見てみたいというのなら、爺に頼んで連れていってもらいなさい。私からも言っておく」
爺というのは、小さい頃から私たちの手習いや遊びの相手をしてくれている傅役の宗右衛門のことだ。もちろん、今すぐにでもお初はその木を見に行きたいし、宗右衛門と一緒に行くのだって楽しいはずだ。
でも、初は兄上と一緒が良かったのに。
口をついて出そうになった一言を胸の内に押しとどめながら、床板に目を落として必死に言葉を紡いだ。
「あ……あにうえは、お忙しいのですか」
お初の言葉の後、少しの間があって、ああという返事が聞こえた。恐る恐る目の前の兄に視線を戻すと、兄は先ほどと変わらない目でお初ではないどこか遠くを見ているような表情をしていた。
どうしよう。いつまで咲いているかも分からない花なのに。お常は、薄橙色の花は一年のうち一度だけ咲くのだと言っていた。もしすぐに散ってしまったら、次に花が咲くのはずっと先になる。その頃にはもう兄は元服を終えているはずで、いつ戦に出ていってもおかしくない。今でなければ駄目なのだ。
しかし、結局お初の口から出てきたのは、わかりましたという小さな声だけだった。それから一言二言兄と言葉を交わした気がするが、何を言ったのかよく覚えていない。兄上はもう昔のような兄上ではなくなってしまったのだと、今まで考えないようにしていた現実がぐるぐるとお初の頭の中を巡っていた。
午後からは漢籍の手ほどきを受けるのだという兄と別れ、心ここに在らずの状態でお初が城の中を歩いていると、廊下でお常とばったり出くわした。お初様、とお常が何か言おうとするのをさえぎるように、昨日話してくれたあの花はあとどのくらいで散ってしまうのですかと問うと、詳しいことはわかりませぬがあと数日もすれば散ってしまうかもしれませんね、と少し不思議そうな顔をされた。
翌日の昼下がり、お初は宗右衛門とともに城の門を出た先に続くゆるやかな山道を下っていた。外はよく晴れていて、麓からの風が吹き抜けるたびに赤く色づき始めた木の葉たちがさわさわと楽しげな音を奏でている。もうすぐ紅葉の季節だ。最近お常に教えてもらった秋の唄を口ずさみながらお初が歩き慣れた道を進んでいくと、町へ続く石段が遠くに見えてきたあたりで隣を歩く宗右衛門が立ち止まった。
「あの石段を降りていくのではないのですか?」
お初がそう言いながら顔を上げると、目元の皺を深くさせながらにこやかな笑みをたたえた宗右衛門と目が合った。
「よく見ると、ここに分かれ道があるのですよ。ほら」
宗右衛門が指差した先を見ると、隙間なく生えているように見える木々の間を縫うようにしてたしかに奥へ続いていく小道がある。この城で生まれてからもうすぐ九年になるというのに、今まで全く気がつかなかった。目を丸くしているお初の横で、宗右衛門がほほほと顔を綻ばせた。
「ここから先は急がず参りましょう。脇見をしていると、うっかり木の根に足を取られてしまいます」
先を歩く宗右衛門に続き、お初も草をかき分けながら小道の方へ足をそろりと踏み出す。お初が完全に小道に入ったのを見届けてから、宗右衛門はお初に背を向けてゆっくりと歩き出した。
まだ歩幅の小さいお初が付いてこられるくらいの速さで、小道の両側から網の目のように地面を這って伸びる木の根の間を宗右衛門は器用に歩いていく。細い根を踏みしめながら、ところどころにある太い根は避けて進む宗右衛門の足取りを見倣って、お初も根に爪先を引っ掛けないよう気をつけながら歩みを進めた。
少し先を歩いている宗右衛門の背中を見失わぬよう、時折前に目をやりつつも地面からほとんど目を離さずに夢中でいくつもの根を越えていくと、ようやく根っこの絨毯が途切れて目の前の地面いっぱいに日の光が差し込んできた。
ややまばらになった木々の間から顔を出す青空が目に入った瞬間、お初は大きく息をついて立ち止まった。ここまで転ばぬように息を詰めて歩いてきたせいか、どっと疲れが押し寄せてくる。後ろをついてくる足音が途絶えたことに気づいたのか、前を向いて歩いていた宗右衛門がお初の方を振り返り、自分も足を止めた。お初が息を弾ませながら宗右衛門の方に一歩、二歩と近づいていくと、宗右衛門は少し休みましょうかと言いながら腰に下げていた竹筒を取ってお初に差し出した。
「そういえば、兄上は今何をされているのですか」
竹筒の中の水をごくごくと飲んだ後、宗右衛門に筒を返しながらふと頭に浮かんできた疑問をお初が口にすると、竹筒の紐を腰に引っ掛けようとしていた宗右衛門の手が一瞬止まった。白髪混じりの髪を後ろできっちりと結い上げた初老の武人の優しい眼差しがお初を見つめる。
「万鶴丸様なら、今朝お会いしたときには麓の寺で兵法を学ぶとおっしゃっていましたよ」
近頃は学問にも武芸にもますます身が入っておられて、頼もしいことですと宗右衛門が付け加えた。
ゆくゆくは父の跡を継ぎ、この城の主をと期待される者として、兄は申し分のない行動をしているのだろう。誰のためというわけでもなく、ただ自ら望んで自分を律しているように見える。父も母も、城で会う家臣たちもそんな兄のことを心強く思っているに違いないというのは、まだ幼いお初の目から見てもわかることだ。そんな兄がいることを、お初だって誇らしく思っている。でも……
そうですか、と返したきり下を向いて黙り込んでしまったお初の肩に、宗右衛門がぽんと片手を置いた。
「さ、もう少し南へ歩いて、あの山道を登れば木犀の花が見えてきますぞ」
頭上から降ってきた言葉に考えごとの海から引き戻され、我に返る。城の門を出たときには感じなかった甘い香りがいつの間にかすぐそこまでやってきていた。
お初は気を取り直して、まだ先へと続く山道を歩き始めた。頭の隅へ追いやってもなお心の奥底からふつふつと湧き上がる後ろ向きな考えを振り払うように、ぐっと前を見据えながら少しずつ険しくなってきた上り坂を両足に力を込めて進んでいく。
不意に、若草色の細々とした茎に薄橙色の花びらを四つつけたものが風に吹かれながらちらちらと足元に舞い落ちてきた。足場の悪い狭隘な坂道で地面にある小さな花を拾うことはお初には難しく、横に見えた赤樫の太い幹に手をついて身体を支えながら立ち止まる。
「もしかして、これが木犀の花ですか」
お初が宗右衛門に問いかけると、坂の上を見てごらんなさい、と笑みを含んだ声が後ろから返ってきた。その言葉に導かれるようにして顔を上げた途端、お初ははっと息を呑んで眼前に姿を現した鮮やかな光景に目を奪われた。
西に傾きつつあるまばゆい日差しを一身に受けたその大きな木は、まるで夜空に浮かぶ星たちを攫ってきたかのような花々を枝いっぱいに煌めかせていた。
急斜面の先に待つ美しい景色に向かって、お初の心が自然と動いていく。終わりの見えないでこぼこした上り道を歩き始めた頃から徐々に積み重なってきていた足の疲れは、瞬く間にどこかへ消えてしまった。近くにある大きな岩に必死で手を掛けながら、お初は最後の一歩を大きく踏み出した。
赤と緑に覆われている山の中腹に突然開けた小さな草地の真ん中で、土にしっかりと根を下ろしたその木に咲く花たちは、風に香りを乗せながら静かに己の居場所を訴えかけているように見えた。
「よく頑張りましたね」
お初の後ろを登ってきた宗右衛門の言葉に返事をするのも忘れて、お初は自分の背丈の何倍もありそうな大きな木に駆け寄った。
「まあ、なんて美しいの」
それ以上に似合う言葉を見つけられず、お初はしばらくの間うっとりしながら花に見とれて立ち尽くしていた。
「そうだ」
この花を少しばかり取って城に持ち帰ったら、母上やお常は喜ぶだろうか。そう思いついて、お初は下の方へ垂れてきている枝の小さな花に手を伸ばしたが、いくら爪先に力を入れて踵を上げてもあと少しというところで手が届かない。お初が痺れを切らして木の下で何度も飛び跳ねていると、その様子を見かねた宗右衛門がお初を軽々と抱き上げてくれた。
片方の手のひらですくえるくらい木犀の花を摘んでから、お初は宗右衛門に礼を言って地面に下ろしてもらった。母上とお常のところに持っていくのです、と言いながらお初は懐から取り出した布に小さな宝石たちを乗せて、丁寧に包んだ。
「せっかくですから、万鶴丸様にも花をお見せしてはいかがですか」
宗右衛門にそう聞かれて、お初はすぐにはい、と答えることができなかった。無言で目を伏せたお初の顔に影が落ちる。
「お初様、いかがなされました」
宗右衛門が首を傾げ、温かい目でお初の顔をのぞきこんだ。お初は一瞬すがるように宗右衛門を見つめてから、ごくりと唾を飲みこんで口を開いた。
「昔の兄上なら、喜んでくれたのやもしれませぬ。されど、今の兄上は……」
この花を見にいかないかと誘おうとしたときの兄の顔がお初の頭をよぎった。どこか別の世に生きているような、近くにいるのにずっと遠くに感じられたその目を見て、お初は初めて兄を怖いと思った。目の前の宗右衛門は、柔和な表情でじっと次の言葉を待っている。
「初のことなどもうどうでも良いのではないかと思うのです」
お初が乾ききった喉からやっとのことで絞り出した声は、小さく震えていた。
「お初様は、寂しいのですね」
宗右衛門の穏やかな声がすとんとお初の胸の中に落ちていく。再び宗右衛門を見たお初の目にじわりと涙が滲んだ。肯定も否定もせず、着物の袖口をぎゅっとつかんで俯いたお初に、宗右衛門が優しく声をかけた。
「お初様は、さっき山道で根っこばかりを真剣に見つめていたとき、鳶が空を飛んでいたことに気づかれましたか」
お初は込み上げてくるものをこらえながら、いいえ、と小さく首を振った。
「何かに気を取られると、誰しも己のそばにあるものがいつの間にか目に入らなくなってしまうのでございます。万鶴丸様も、元服を前にして何か思い詰めていることがあるのやもしれません。先ほどのお初様のごとく、目の前のことに精一杯なのではないか……というのがこの老いぼれの見立てにございますが、お初様はお初様のままでよいのですよ。爺の言ったことなど気にせず、己が心を大事になさい」
「大事にって、どうしたらよいのですか。初の好きだった兄上はもういなくなってしまいました」
宗右衛門にぶつけてもどうにもならない沸き立つような疑問とともに、今度こそお初の目から大粒の涙が流れ落ちていく。お初はそのまま地面にしゃがみこんでぼろぼろと泣きはじめた。
「万鶴丸様はもともと真っ直ぐな優しい心根をお持ちです。正直に、本当のことを伝えてごらんなさい。きっと伝わります」
宗右衛門に背中をさすられながら励まされても喉の奥を引きつらせて泣き続けているお初の後ろから、慌てたような足音とお初のよく知っている声が聞こえた。
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寺を出ると、向こうの山から木犀の香りがした。宗右衛門に初を木犀のところへ連れていってもらうよう頼んだのは今朝のことだ。
そうでしたか、では昼過ぎにでもお初様に声をかけてみましょう、と宗右衛門はそこで初めて聞いたかのように答えていた。
昨日、稽古を終えた私のところへ駆けてきたときはあんなに楽しそうにしていた初がなぜ宗右衛門に木犀の話をしていないのか。少し引っかかったものの、寺に行くと住職に伝えた時刻が近づいてきていたのでそれ以上は考えるのをやめたのだった。
痛いほど眩しい日差しを真っ向から受けて思わず目を細める。あの夕日に照らされながら時間を忘れて初と一緒にはしゃいでいた頃もあった。
小さい頃に戻りたいわけではない。ただ、今はあの日を見ると何かに追い立てられているような気がして仕方がない。夕日に背を向けて、長く伸びた影を踏みながら城のある山の方へと歩き出した。
血で血を洗うような戦とは距離を置いた、長閑な城で生まれた。都の方では大戦が起きているという話を父から時々聞くことはあったが、この目で見たこともないのに実感が湧くはずがなかった。幼い頃に始まったその大戦は私が十四になった今も収拾がつかぬほど長引き、都から遠く離れたこの地にも少しずつ戦の気配が忍び寄ってきている。
「これからの世では、他人の腹の内を探るしたたかさがなければ生き残れぬ」というのは父の昔からの口癖である。私には、妹の初の他に兄弟はなく、父の老いたあとに家督を継ぐとすれば私だというのが家中の暗黙の了解であった。
都で続いている戦のように、兄弟で何かをかけて争うようなこともなく、和をかき乱そうと企む者も見当たらぬほど、この家中の統率はとれている。父の言葉の意図を推し量るとすれば、「この平和はいつまでもつかわからぬ。現状に甘んずることなく、己の目でしっかりと世の中を見定めよ」ということなのだろうが、どれだけ古典や兵法を学んでもそんな目を持てるようになったとは思えない。
戦わずして勝つには、ということを説いた一節をこの前寺で読んだ。幼い頃の私なら、策の巧妙さと鮮やかさに心を躍らせたに違いない。無論、味方の受ける損害は少なければ少ないほど良いとは思う。しかし、そのためには時流を読み、迫りくる敵の心を読み、裏の裏をかかねばならないと考えると空想からどんどん現実へ引き戻されていく。
闇雲に戦うだけで城と民たちを守り抜けると思っているのなら考えが浅い、と父に似せた心の中の私が言う。それにどのように戦ったとて、最後に待つのは死の一文字なのだ。違いがあるとすれば、それが訪れるのが敵か己かということくらいであろう。ならば、私が今まで考えていたことは悩むに値せぬことなのか……
そんなことに気を取られていたら、最近の武術の稽古で剣先に迷いが見えると言われてしまった。そのときだけは考え事を頭の隅に追いやっているつもりだったのに、いともたやすく心の内を覗かれたことが情けなかった。
学問も武術も、学び始めた頃は楽しかった。しかし、今は学ぶもの全ての中に己の姿ばかり探しているような気がする。
ただ学ぶのではなく、己がいかにしてそれを使うか考えることが肝要だと住職は言う。だからといって、どうすべきかと兵法書に問いかけても答えは返ってくるはずがない。当主の器ではないと思われることが怖くなって、近頃はますます真剣に学ぶようになった。
日が昇っているうちは毎日のように稽古場や寺に入り浸っている私を家臣たちはよく褒めてくれる。私はただ必死にもがいているだけなのに、彼らは早くも未来の頼もしい主君の姿を思い描いているのだろう。
しかし、私は……。その言葉の先に続く弱気な反論を無理やり飲み込むようになってから、彼らの屈託のない笑みに行き場のない苛立ちを覚えることが増えた。
私はこんなにひねくれた人間だったのだろうか。
頭をぶるぶると振って、足元の小枝を力いっぱいに踏んだ。枝は乾いた音とともに折れると思いきや、草鞋から剥き出しになっている足先にピシリと当たった。軽くため息をついて曲がりくねった山道を登っていくと、城へと続く木の根の多い近道が見えてきた。
城から木犀の木までは半刻、いや幼い初の足ならもっとかかるだろう。そろそろ木犀の花を見て帰るころだろうか。そういえば、あの時、初は私に何か言いたいことがありそうな仕草をしていた。
ただ木犀の花が見たいだけなのだと思っていたが、私は何か大切なことを見逃していないだろうか。
ざあっという梢の音とともに、木犀の甘い香りが押し寄せてくる。
木の根の道に入りかけたところで立ち止まり、あ、と気がついた瞬間、踵を返して木犀のある方へ走り出していた。
思えば、初は私が学問や武術に打ち込んでいるのをわかってか、駄々をこねたり我儘を言ったりすることがなくなっていた。私を放っておいてくれるのは正直ありがたかったが、もし初が私だけに木犀のことを話したとするならば、あれは私への精一杯の願いだったのではなかろうか。そうだとしたら、私はなんてひどいことを。
夕日はもう、枝の合間から山肌を貫かんばかりに赤々と照りつけている。私の足ならそう時間はかからないはずだ。
頼む、どうか間に合ってくれ。そう心に念じながら、まばゆい光の中をひたすらに駆け抜ける。
満開の花の下で肩を震わせながらうずくまる小さな背中が見えたとき、私の推測は正しかったのだと悟った。息を切らしながら近づいて、いつかの幼い日のようにその名を呼びかけた。
********
「初!」
(続きます)
友達に転校を告げられたのは、ある暖かい秋の日の午後だった。体調が思わしくなくて最近学校を休みがちだった彼女とは、今はクラスが違うけれど1年生の頃からずっと仲良くしていた。
彼女には、一生付き合っていかなければならないものがある。死に至るわけではなく、特に悪化するとも限らないが、生きている限り決して治ることはないものだ。
学校生活でも一応の配慮はされているが、大人数に対する授業ではどうしても個人の問題に完璧に配慮することは難しく、だからこそ彼女は私たちの何倍も神経を尖らせて授業に参加せざるを得なくなっていた。そのせいか、明らかに疲労が見えることも度々あった。自分のせいで他の人の練習を遅らせてしまうのではないかと考えて積極的に授業に参加するのを躊躇ったことが、ある先生には努力不足であるように映ってしまい、それ以来冷淡な態度を取られるようになったことも知っている。
何かあるたびに私や他の友人たちに心配されながらも決して授業を休むことはなかった彼女が、登校することさえ難しい今の状況はどれほど深刻なのか、自分でも薄々気づいていた。文化祭に向けた準備のために慌ただしく隣の教室と自分のクラスを行き来する中で、時間が止まったように佇む空席を目にする日が増えるたび、いずれこの学校を去る日が訪れるのではないかと覚悟もしていた。
だから、久しぶりに学校に姿を見せた彼女が、疲れたような笑顔を見せながらも迷いのない表情で通信制高校に転校すると言い切ったとき、自分の感情をすっかり脇に置いたまま「きっとそれが彼女にとって一番良い方法なのだろう」と腑に落ちた私がいた。最後の日も、きっと私は心からの笑顔で彼女を見送ることができるだろう。
でも、別れの日がいよいよ明日に迫った夜に自室でひとり思い出を振り返ったとき、自分の本心はそれだけではないとわかってしまった。彼女と他愛もない話をした帰り道が、笑いあった休み時間が、教室の窓際で互いの悩みを真剣に聞きあった放課後が、全て過去のものになる。転校してもスマホで連絡を取ることはできるし、今までより頻度は少なくなるだろうが会うこともできるのに、何かが失われてしまうようなこの感覚はいったい何なのだろうか。
行かないで、と彼女を前にしてなんの躊躇いもなく口に出せたら、自分の心だけは楽になるのかもしれない。
でも、そう願った先に彼女の幸せはないとわかっているから、幼すぎるその言葉を伝えるかわりに手紙を書くことにした。
【行かないでと、願ったのに】