身動ぎの音で意識が浮上する
ひとつ、大きな欠伸をして
ぐぐぐっっと少し強ばった躰を伸ばす
カーテンの隙間から見える
四角く切り取られた空は青く
雲ひとつない、"いい天気"だ
乾いた喉を水で潤して
顔を洗い、身だしなみを整える
どこかに出かけるわけではないけど
これは大事なこと
ほわほわと鼻をくすぐる香りを放つマグが
コトン、と小さな音を立てて置かれた
『おはよう』
琥珀色の液体を一口飲んで
ほぅ、とひと息ついた彼に挨拶をする
「おはよう」
素っ気ない一言
でも、すごく落ち着く
私の大好きな声
「明日、明後日は休みだ。今日1日、頑張るか」
そう、言うと冷蔵庫の中から
色々なものを取り出す
卵にトマト、ベーコンとブロッコリーにレタス
あれは、作り置きしていた鶏の照り焼き
うん、美味しそう
冷凍庫から凍らせたご飯を取りだして電子レンジに入れる
その間に食パン2枚をポップアップトースターにセット
卵を割ってかき混ぜて、塩、胡椒で味付け
あ、ほらアレ忘れてる、えーと、何だったかな…んーと、えーと、あっ、そうだ!
『煎りゴマ!』
彼は慌てて煎りゴマを追加して
熱したフライパンに卵を流し入れて…
相変わらず、見事な手つき
魔法のように卵がクルクル巻かれて形になっていく
煎りゴマがいいアクセントになって
味も香りも食感も楽しめる
美味しそうな卵焼きが完成
パチパチパチ♪
『きゃぁっ!』
急に飛び出た食パンにびっくりして
大声出して飛び上がっちゃった
うーん、毎日のことだけど
慣れないのよね、これだけは
ポップアップトースター、苦手だわ…
もう、笑いすぎよ…
目尻に涙溜めるほど笑わなくても良いじゃない
ちょっと、頭撫でないで
くしゃくしゃになっちゃう!
もーっ!
電子レンジで温めたご飯を容器に詰めて
他のオカズも次々に綺麗に詰めて
蓋をしたら、専用のバッグに入れる
焼いた食パンにはバターを塗って
透明なコップに野菜ジュースを注ぐ
いつもの皿に缶詰の中身をあけて
テーブルへと運ぶ
水が温くなっているからって
新しいのと取り替えてくれる
『ありがと』
ちょっ、だから頭をくしゃくしゃにしないでってば
……正直に言います
撫でられるのは嫌いじゃないです
寧ろ好きです
大歓迎です
でもくしゃくしゃにされると
後で直すのが大変なの
朝は忙しくてくしゃくしゃになったの
あなた、直してくれないから…
だから嫌なの
『わかった?』
え?
ご飯食べないのかって?
た、食べるよ!お腹ペコペコだもん
あ、これ美味しい
初めて食べる味だ
何だろう、それなりに食感もあるし
コクというか、深みがあるというか…
味はすごく感じるんだけど濃くないし
しつこくなくて、後味スッキリって感じ
「気に入った?」
『もちろん!』
「そっか、良かった。っと、もうこんな時間だ。急がないと」
彼はバタバタと準備をする
この部屋の外へ行く準備
青い空が黒くなる頃まで
この部屋には私独りだけになる
どんなに鳴いても
返事をしてくれる彼はいない
私の声は誰にも届かない
「じゃぁ、行ってくるね。いい子にしてるんだよ」
重いドアが無機質な音を立てて
彼と私の間を隔てる
「にゃーん」
ここからの長い時間を
独りで過ごすのが私の日常
殆ど寝ているだけだけど
寝ながらいつも希う
早く彼があのドアの向こうから
こちら側へ帰って来ますように…って
混雑する駅前広場
帰宅ラッシュの人混みの中
お目当ての人を見つける
周囲から頭一つ分飛び出てる所為で
とても分かりやすい
比較的人の少ない広場の端で
私は待っている
両手で大きな紙袋を抱え
左側にはひと月前に20歳になった娘
右側には半年ぶりに顔を見せた息子
因みにもう1人の息子は遠い海の向こう側
さて息子よ、仕事が忙しいとか言っているけど
母は知っています
彼女ちゃんと色々な所に旅行していることを
何なら、次の旅行先を京都にするか
福岡にするか悩んでいることも
因みに母のおすすめは新潟です
美味しい日本酒が呑めるから
彼女ちゃんも大満足するはずです
ついでに、婚約指輪はシンプルな方がいいです
ゴテゴテしたのはNGです
石が大きすぎるのもダメです
あと、ダイヤモンドじゃなく
ブルーサファイアがおすすめです
色は濃いめがいいです
でもまぁ、彼女ちゃんなら
どんな指輪でも喜んでくれると思います
だから早くプロポーズしなさい
いつまで待たせるつもりなの?
いい加減覚悟を決めなさい
ん?あら、ごめんなさい
考え込んでて気が付かなかった…
ちょっと、そんなにしょんぼりしないでよ
はいはい、好きですよ、愛してますよ
世界で1番ですよ
軽いって、気持ちが篭っていないって…
「めんどく…あ…」
あー、やっちゃった、失敗した
あー、もうわかってるって
私が悪かった、うん、悪いのは私
だから子供達よ、そんな目で見ないでちょうだい
大体いい大人がちょっと無視されただけで不貞腐れるなんて…
ハイ、ソウデスネー
やります!やりますよ!やれば良いんでしょ!
「ふぅ…」
え、何してるのかって?
気合い入れてるのよ
だって恥ずかしいんだからね
来年には50歳になるのよ、私
それなのにこんなに人の多い所で…
息子、ちょっとコレ、持ってて
思いっきり背伸びして
彼の顔に両手を伸ばす
彼は私に合わせて腰を曲げる
そっと頬に手を添えて
じっ…とその目を覗き込む
あぁ、好きだなぁ…
額にひとつ
右の瞼にひとつ、左の瞼にひとつ
右の頬にひとつ、左の頬にひとつ
鼻の天辺にひとつ
顎にひとつ
ゆっくり丁寧にキスをする
そして最後に唇を重ねる
お返しに今度は彼が私の頬に手を添える
ゆっくりと私に降り注ぐ
少しカサついた彼の唇
……もう良い?機嫌直った?
良かったぁ
「なぁ親父、何でいつも花束なんだ?理由知ってる?」
紙袋の中身を覗き込みながら息子が問う
「結婚の条件だよ。毎年誕生日に花束をくれるなら結婚するっていう。花の色はコバルトブルーに限定されて」
「え、じゃぁじいちゃん、50年ずっと花束贈ってんの?」
「そう。昔は年齢と同じ本数をあげてたけど、30年前くらいに"女の年齢は忘れたフリをするのがいい男よ"って言われて、どうしたら良いか相談された」
「じゃぁ今は適当な本数?」
「いや、結婚してる年数分だよ。今年は丁度50本」
「金婚式だもんな」
お義母さんが好きな薔薇の花束を
50年の節目に贈りたいと
相談されたのが2ヶ月前
品種改良で作られた青い薔薇は薄紫っぽいものばかりで
コバルトブルーの薔薇は人工的なもの
お義父さんは人工的に色付けした薔薇に
難色を示したけど、生花ならとOKを出した
サプライズのために花束は
毎年我が家に送られる手筈になっている
で、それが届いたのが3時間前
『どうしてこの色が好きなんだろうなぁ』
タブレットを見ながら、ぽつりと呟いた背中と
前を歩く男二人の背中が重なる
「そう言えば、母さんもこの色好きだよな」
えぇ、好きですよ
それが何か?
因みに、彼女ちゃんの好きな色も同じですよ
「何で好きなの?」
………嫌よ、絶対教えない
だって恥ずかしいもの
ちょっと娘、笑ってないで助けなさい
あなたも教えて欲しいとか言ってないで
前向いて歩きなさい
あ、ほら人とぶつかるわよ
「あ、おじいちゃん!」
パタパタと走り出した娘が
旦那と同じく周りより背の高い
老紳士にガバッっと抱きつく
互いにギュッと抱き合って
頬を寄せてリップ音を鳴らしている
続いて息子とも抱き合って
旦那とも抱き合って
私…とは旦那の妨害を受け、握手だけ
旦那さま、ちょっと心が狭くはないですか?
私もお義父さんのコバルトブルーを
もっと近くで見たいのですが?
じっーと抗議の目を向けるが
目線を合わせず、知らないふりをしている
コレはあれだ
好きな理由を教えないから
少し拗ねている……
本当に、もう…
「あなたのコバルトブルーが1番好きよ」
小さく耳元で囁いた刹那
顔中にキスの雨が降り注いだ
あなたがいたから
泣き崩れずに立ち上がって
あなたがいたから
俯かずに前を向いて
あなたがいたから
ぐっと歯を食いしばって
あなたがいたから
立ち止まらず歩き続けた
「長かったなぁ、25年かぁ」
アナタと私の息子が今日、結婚します
25年前のあの日、アナタが命を懸けて守ったあの子と
2人並んで幸せそうに笑ってるわ
アナタがいないから
パパ、パパと泣く子供を抱いて
真夜中の公園を歩き続けた
アナタがいないから
夜の空に瞬く星を独りで数えた
アナタがいないから
子供の高い体温に縋って眠り
アナタがいないから
歩むべき道を見失いそうになった
「アナタとあの子、同い年になったのよ。私だけおばちゃんになっちゃったわ」
酷い人
一緒に歳をとって、縁側でお茶を飲みましょうって約束したのに
狡い人
自分だけ若いままで、変わらない笑顔でいるなんて
あなたがいなければ
なんて、一度も考えたことなんかなかった
アナタがいたなら
なんて、考えてもどうしようもないのに
考える事をやめられない
アナタがいたから
私は独りではなかった
あなたがいたから
私は独りにはならなかった
アナタもあなたも
そしてあの子も
私の大切な家族よ
え?家族が増える?
ちょっと待って、そんなの、聞いてないわよ!
幸せ過ぎて泣いちゃいそうじゃない
やめてよ、もぅ…
少し大きな長靴と
少し大きな黄色いカッパがふたつ
小さな手と手を繋いで
ピチピチ、ちゃぷちゃぷ
リズミカルに歩く
傘を差し出すと
手を繋げなくなるから
要らないと言う
そうか、キミ達は
まだまだ片手で傘を持てないか
まぁ、このままでもいいかな
とか考えていたら
2人でコソコソ相談している
何だろう?としばらく待っていると
2人同時に振り返って
小さな手を差し出した
うん?え?傘欲しい?
はいはい
ん?コレジャナイ?そっち?
これはママの傘…
あー、はいはい、わかりましたよー
ママの透明な傘貸してあげるから
大きな声で騒がないでねー
キミ達には大きい傘なんだけどな
まぁ、器用に2人で持って
相合傘ですか
「で、ソレ?」
「そう」
ちょっとソコ
肩を震わせて笑わないように!
私だって少し恥ずかしいんだから
傘を買う時2人が選んだのは
緑色のカエルの傘
傘の上?に目玉がついてる
私が子供の頃には無かったデザインの傘
「流石にチビ達の傘じゃ濡れるでしょ」
「だって、他に傘ないよ」
「傘ならここにあるでしょ」
「それはアナタの傘でしょう。スーツ濡れると大変なんだから…って、ちょっ」
「さ、こっちも相合傘だ」
「……もう」
「さ、チビ達、お家へ帰るぞー」
ピチピチ、ちゃぷちゃぷ
リズミカルな足音
今週末、久しぶりに温泉でもどうかって
そりゃぁ、行けるなら行きたいけど…
お姉さんが預かってくれる?
ん?彼氏と?
え?小児科医?子持ち?
へぇ、あの子達と同い年か
そうだね、友達になれるといいね
え?1泊2日で?旅館予約済み?
近場でゴメンって、この旅館この間テレビで特集やってた所じゃない!
1泊5万くらいする…え?無料?懸賞で当たった?
「どう?」
「ンもう、最高!」
ピチピチ、ちゃぷちゃぷ、チュッ♡