やまめ

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8/23/2023, 12:16:44 PM

そのまま海に吸い込まれたら、もう明日顔を洗うタイミングなんて気にしなくていいんだ。
その為なら、なんとか身体を動かして服を着れる。
呑み込まれてしまえば、沈み込んでしまえば、みんなの仕事がひとつ減るだろう。
そう思って、靴を履いた。

8/22/2023, 12:39:33 PM

「えへへー、来ましたぁー」
頭の中が真っ白の状態で椅子に身を投げ出す。内心穏やかではないくせに、いや、だからこそヘラヘラするしかない私を一瞥し、波野さんはなおも授業の準備を続けた。私もそれを気にせず、口を開く。
あれ。
話したいことはたくさんあるはずなのに、何も言葉が出てこない。溢れ出てこない。こんなこと、波野さんじゃなきゃ起こらない。だから、この何も出てこないという現象に慣れることができない。
たぶん、私は普段わりと適当に喋っているのだと思う。だから丁寧に話したい相手ほど、その気持ちにつり合う話のタネがクソほども無いのだ。
「‥きりんって、なんできりんっていうんだろう‥」
波野さんの突然の呟きに、一瞬脳内が大混乱を起こした。
あわやというところでバランスを保ち、不可解に相応しい顔をする。
「‥といいますと‥?」
促しながら改めて波野さんの方に目を向けると、「麒麟」と文字が見えた。
「動物のきりんと、幻のこいつの名前が一緒なのって‥」
幻の麒麟を見ながら、動物のきりんを思い出す。
「あーまあたしかに‥言われてみれば見間違えてもおかしくはないかも」
ぼそっと言うと、うーんそうだよねぇと波野さんが唸った。
さっ、と頭の片隅を何かが横切る。
「きりんの雄と雌の見分け方って、知ってますか?」
なんとか知識の端っこを掴んで、引き寄せる。よかった、ストックはまだあった。
「んふっ、なんだよそれ、どゆことだよ!」
波野さんが笑ってくれて、心から、本当に心からほっとした。
「あのぉ、頭の上の毛らしいです」
「なんだその情報!はーはーは!」
波野さんの引き笑いに心が満たされたところで、チャイムが鳴った。
「授業行ってきます!」
必要以上に元気よく立ち上がる。もう何も未練は無いという風に。その勢いのまま職員室から飛び出す。
未練は、無い訳ない。当たり前だ、時間も密度も足りる訳が無い。仲良くなりたい人に対して、たったの10分だ。
本当は、たくさん聞きたい。なんでそんなに明るく強く見えるんだ。なんでそんなにメンタルにむらがないんだ。なんでそんなに人として素敵になれるんだ。何がどうなって、どんなことがあって、どんな人に出会って、何が波野さんを波野さんたらしめたんだ。
あと一ヶ月で、もう毎日会えなくなるのに。私はもう、卒業してしまうのに。
どうして、私はこんなにも不器用なんだ。せめて、代わりに面白い話のひとつでもしてみろよ。
そうやって自分を罵倒しているのに、波野さんと少しでも話せた、その事実ひとつで、その事実たったひとつで。
「お前‥なんでそんなにこにこしてんだよ」
教室に入ると、たじろいだように同級生があとずさりした。

8/22/2023, 2:46:47 AM

もし空が飛べたなら、こんな息苦しい街、見下ろしてげらげら笑えたのに。
もし嘴があったなら、自分の鈍った心なんて、一突きでしゃっきりさせたのに。
飛べないあの鳥だって、強くありさえすれば高らかに愉しげに謳えるのだ。
鳥という生き物の美しさはなんだろう。鳥という生き物の気高さはなんだろう。
‥不思議だ。鳥なんて嫌いだったのに。
鳥って、私にとってなんなんだろう。

8/20/2023, 1:12:02 PM

あなたのお腹が大きくなっていく。それを見る度、それをどこか幸せに感じている。
命が宿るということは、とても良い事だ。わかっている。美しくて、尊くて、幸せな事で…
それが、好きな人だとしても。

ここのところ、毎日毎日、妊婦となったあなたの姿を横目に、学校生活を送っている。あなたの担当する授業の前は、いつも緊張して少し饒舌になってしまう。あなたが教室に入ってきた瞬間、私の喉はもうどうしようもなく固まる。いつもより幾音も高い声であなたに話しかける。あなたはいつも落ち着いた低いアルトでそれに応える。
私があなたの事を大好きなのは、同じクラスの皆が気づいている。きっと、あなただって気づいている。
授業中、あなたが私の傍で静かに息をする度に、何かを呟く度に、何かを読むためにそっと目を伏せる度に、にっこりと笑う度に、私の心はいつも揺れる。
どうして、私なんだろう。あなたをこんなにも好きになるのは、どうして私なんだろう。
どうして、私はあなたを好きなんだろう。
別に、あなたが女性だからじゃない。
あなたを人として、大好きになったんだ。
恋が何なのかは、全然わからないし、これが恋だとしたら、私はあまりにも切なすぎる。
あなたが大好き。それで十分だ。
あなたと結婚したあの人が、たまにとても羨ましい。その人のことも私はとても好きだから、嫉妬なんて認めたくない。
でも、羨ましい以前に、思うんだ。
ああ、敵わない。って。笑ってしまうくらいに。
あなたと結婚したのがあの人でよかった。あの人なら、絶対にあなたと幸せになれる。まあ、その前に2人とも自分で幸せを掴むだろうけど。
あと一カ月で、あなたは産休・育休に入る。職場復帰する頃には、私はもう卒業生だ。
ねえ。あなたがもう2歳になるあなたの子供の話をする時、あなたはとても幸せそうな顔をしている。美しくて、優しい母親の顔をしている。
私はその顔が大好きだから、だって、あまりにもあなたのその顔は美しすぎたから、
だから、
元気な赤ちゃんを、元気に、産んでほしい。
あなたは本当に強い人だから、私が願う事祈る事全部、必要性は皆無だなんてわかっている。
だけど、それでも。この先は、必要ないでしょう。
さよならって、あなたにいつ言えばいいんだろう。
わからないけど、いつさよならでもいいように、私はあなたの前で笑ってみせる。あなたの前で、いつまでも笑ってみせる。それくらい、いつでも笑ってられるくらい、あなたがいなくても笑えるくらい、強くなってみせる。
そうすれば、私がかつてどれくらい弱かったか、今どれだけ幸せか、伝わる気がするから。
だから、それをさよならのかわりに。
私がいなくてもあなたが生きていけるように、この先私の人生にあなたがいなくても、私は生きていける。それでいい。
最後に。
あなたを好きになってよかった。

8/20/2023, 5:20:52 AM

どれだけ注意して扉を開けても、防犯性に長けたこの扉は、どうしたって大きな音を立てる。
ガチャッ
家族がぐっすり眠っていることを願いながら、扉の隙間に身を滑り込ませる。
外に出ると、空気が変わった。静かで、凍えそうに寒くて、吐息が温かくて、やっと息ができた。
目を閉じて、また開ける。
雨が降っていた。靴も履いていないのに。
空がまだ薄暗い。私はとうとう眠れなかった。
おもむろに、胸の前で手を組む。
神様。‥神様。どうか、見ていてください。どうか、今だけは、手を差し伸べてください。こんなことを祈らなくても、きっとあなたは私の傍にいる、そう、皆は言うんです。だけど、私はこうして言い聞かせなければ、とても怖くて立っていられない。
神様。とうとう今夜は眠れなかった。もう涙なんて出ない。だけど、だけど神様、雨が降っているんです。しとしとと、私の頬を濡らすんです。じき、私の涙に取って代わるでしょう。
だから、その時、その時だけは、どうか。

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