やまめ

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「えへへー、来ましたぁー」
頭の中が真っ白の状態で椅子に身を投げ出す。内心穏やかではないくせに、いや、だからこそヘラヘラするしかない私を一瞥し、波野さんはなおも授業の準備を続けた。私もそれを気にせず、口を開く。
あれ。
話したいことはたくさんあるはずなのに、何も言葉が出てこない。溢れ出てこない。こんなこと、波野さんじゃなきゃ起こらない。だから、この何も出てこないという現象に慣れることができない。
たぶん、私は普段わりと適当に喋っているのだと思う。だから丁寧に話したい相手ほど、その気持ちにつり合う話のタネがクソほども無いのだ。
「‥きりんって、なんできりんっていうんだろう‥」
波野さんの突然の呟きに、一瞬脳内が大混乱を起こした。
あわやというところでバランスを保ち、不可解に相応しい顔をする。
「‥といいますと‥?」
促しながら改めて波野さんの方に目を向けると、「麒麟」と文字が見えた。
「動物のきりんと、幻のこいつの名前が一緒なのって‥」
幻の麒麟を見ながら、動物のきりんを思い出す。
「あーまあたしかに‥言われてみれば見間違えてもおかしくはないかも」
ぼそっと言うと、うーんそうだよねぇと波野さんが唸った。
さっ、と頭の片隅を何かが横切る。
「きりんの雄と雌の見分け方って、知ってますか?」
なんとか知識の端っこを掴んで、引き寄せる。よかった、ストックはまだあった。
「んふっ、なんだよそれ、どゆことだよ!」
波野さんが笑ってくれて、心から、本当に心からほっとした。
「あのぉ、頭の上の毛らしいです」
「なんだその情報!はーはーは!」
波野さんの引き笑いに心が満たされたところで、チャイムが鳴った。
「授業行ってきます!」
必要以上に元気よく立ち上がる。もう何も未練は無いという風に。その勢いのまま職員室から飛び出す。
未練は、無い訳ない。当たり前だ、時間も密度も足りる訳が無い。仲良くなりたい人に対して、たったの10分だ。
本当は、たくさん聞きたい。なんでそんなに明るく強く見えるんだ。なんでそんなにメンタルにむらがないんだ。なんでそんなに人として素敵になれるんだ。何がどうなって、どんなことがあって、どんな人に出会って、何が波野さんを波野さんたらしめたんだ。
あと一ヶ月で、もう毎日会えなくなるのに。私はもう、卒業してしまうのに。
どうして、私はこんなにも不器用なんだ。せめて、代わりに面白い話のひとつでもしてみろよ。
そうやって自分を罵倒しているのに、波野さんと少しでも話せた、その事実ひとつで、その事実たったひとつで。
「お前‥なんでそんなにこにこしてんだよ」
教室に入ると、たじろいだように同級生があとずさりした。

8/22/2023, 12:39:33 PM