もし空が飛べたなら、こんな息苦しい街、見下ろしてげらげら笑えたのに。
もし嘴があったなら、自分の鈍った心なんて、一突きでしゃっきりさせたのに。
飛べないあの鳥だって、強くありさえすれば高らかに愉しげに謳えるのだ。
鳥という生き物の美しさはなんだろう。鳥という生き物の気高さはなんだろう。
‥不思議だ。鳥なんて嫌いだったのに。
鳥って、私にとってなんなんだろう。
あなたのお腹が大きくなっていく。それを見る度、それをどこか幸せに感じている。
命が宿るということは、とても良い事だ。わかっている。美しくて、尊くて、幸せな事で…
それが、好きな人だとしても。
ここのところ、毎日毎日、妊婦となったあなたの姿を横目に、学校生活を送っている。あなたの担当する授業の前は、いつも緊張して少し饒舌になってしまう。あなたが教室に入ってきた瞬間、私の喉はもうどうしようもなく固まる。いつもより幾音も高い声であなたに話しかける。あなたはいつも落ち着いた低いアルトでそれに応える。
私があなたの事を大好きなのは、同じクラスの皆が気づいている。きっと、あなただって気づいている。
授業中、あなたが私の傍で静かに息をする度に、何かを呟く度に、何かを読むためにそっと目を伏せる度に、にっこりと笑う度に、私の心はいつも揺れる。
どうして、私なんだろう。あなたをこんなにも好きになるのは、どうして私なんだろう。
どうして、私はあなたを好きなんだろう。
別に、あなたが女性だからじゃない。
あなたを人として、大好きになったんだ。
恋が何なのかは、全然わからないし、これが恋だとしたら、私はあまりにも切なすぎる。
あなたが大好き。それで十分だ。
あなたと結婚したあの人が、たまにとても羨ましい。その人のことも私はとても好きだから、嫉妬なんて認めたくない。
でも、羨ましい以前に、思うんだ。
ああ、敵わない。って。笑ってしまうくらいに。
あなたと結婚したのがあの人でよかった。あの人なら、絶対にあなたと幸せになれる。まあ、その前に2人とも自分で幸せを掴むだろうけど。
あと一カ月で、あなたは産休・育休に入る。職場復帰する頃には、私はもう卒業生だ。
ねえ。あなたがもう2歳になるあなたの子供の話をする時、あなたはとても幸せそうな顔をしている。美しくて、優しい母親の顔をしている。
私はその顔が大好きだから、だって、あまりにもあなたのその顔は美しすぎたから、
だから、
元気な赤ちゃんを、元気に、産んでほしい。
あなたは本当に強い人だから、私が願う事祈る事全部、必要性は皆無だなんてわかっている。
だけど、それでも。この先は、必要ないでしょう。
さよならって、あなたにいつ言えばいいんだろう。
わからないけど、いつさよならでもいいように、私はあなたの前で笑ってみせる。あなたの前で、いつまでも笑ってみせる。それくらい、いつでも笑ってられるくらい、あなたがいなくても笑えるくらい、強くなってみせる。
そうすれば、私がかつてどれくらい弱かったか、今どれだけ幸せか、伝わる気がするから。
だから、それをさよならのかわりに。
私がいなくてもあなたが生きていけるように、この先私の人生にあなたがいなくても、私は生きていける。それでいい。
最後に。
あなたを好きになってよかった。
どれだけ注意して扉を開けても、防犯性に長けたこの扉は、どうしたって大きな音を立てる。
ガチャッ
家族がぐっすり眠っていることを願いながら、扉の隙間に身を滑り込ませる。
外に出ると、空気が変わった。静かで、凍えそうに寒くて、吐息が温かくて、やっと息ができた。
目を閉じて、また開ける。
雨が降っていた。靴も履いていないのに。
空がまだ薄暗い。私はとうとう眠れなかった。
おもむろに、胸の前で手を組む。
神様。‥神様。どうか、見ていてください。どうか、今だけは、手を差し伸べてください。こんなことを祈らなくても、きっとあなたは私の傍にいる、そう、皆は言うんです。だけど、私はこうして言い聞かせなければ、とても怖くて立っていられない。
神様。とうとう今夜は眠れなかった。もう涙なんて出ない。だけど、だけど神様、雨が降っているんです。しとしとと、私の頬を濡らすんです。じき、私の涙に取って代わるでしょう。
だから、その時、その時だけは、どうか。
ふと顔を上げると、目が合った。そいつは何の気力もない顔で呟いた。
タスケテ。
自分では発したつもりもないのに、鏡から聞こえたその声は、確かに鼓膜を震わせた。瞬時にはその言葉を認識できず、ただ動いたその唇を凝視してしまう。
‥え。
「なんで」
認識はしたものの、どうしても理解できなかった。
なんで、そんな顔なのに、そんなこと言えるんだよ。そんな気力が残ってるはず、ないのに。なんで。
わからない。
見つめ合ったまま、睨みつける。
最低。お前は、最低だ。
鏡の中の自分が、微かに笑った。困ったように、眉尻を下げる。
そんな顔をするなよ。腹が立つなんてもんじゃない。情けなくなるんだ。だから、そんな顔するなよ、
「絶対、見捨てないから、もう」
自分の呟きがまた鼓膜を震わせる。真っ当に、自分の脳に認識されることがわかっているから、だから驚かない。もう何も意外じゃない。
決めたんだ。
睨みつけて、最低だと踏みつけて、それでもお前だけは見捨ててやらない。
覚悟しとけ。絶対、死んでやるか。
だから死ぬなよ。お前は、そこで見てろ。
馬鹿野郎。