ありがとう、って実はちょっと不思議な言葉で、どうしてこう使われているのかが不思議。
しょうがないので『言海』とか持ち出すのは古いスタイルだけど、ありがとう、ありがたうという言葉はなくて、
ありがたし(形)
(一) 存在スルコト難シ、在リカヌ
(ニ) 類ヒ少ナシ、稀ナリ
(三) カタジケナシ
ってなってる。
その次の言葉が「ありがたなみだ(難有涙)」で、尊サ、又ハ喜バシサニ感ジテ出ル涙、感涙、なので、「有り難し」はその頃にも尊い喜ばしいものに対して使われてはいた言葉で、(三)カタジケナシが元なんでしょうか。
で、
かたじけなし(形) 難シ氣ナシの意
(一) 畏シ、恐レ多シ。勿體ナシ
(ニ) 惠ミを受ケテ嬉シ
なので、ここまできても自分が嬉しいまでで、まだ相手への感謝は出てこない。
だから本来は4ステップの「滅多にないような→(あなたのご配慮の)→恵みを受けて嬉しい→(感謝します)」のメッセージなのに、初段の「ラッキー」みたいな言葉だけで、むしろ隠しメッセージの(あなたへの感謝の意)を伝えるから、よく分からないんでしょう。
電話の「もしもし」も含めて、???なニホンゴ多いね。
そっと伝えたい、
スカートのタグが飛び出てますよ...
面識がない女性なら伝えない方が無難なんだけど、あちこちでふふっ、とか思われてしまうのもどうなんだろうとか...
ココロ...
ひらがなでこころというと、まずは漱石の『こゝろ』で、漢籍もいけて漢字大好きな漱石がわざわざ平仮名にしたあたり、しかも平仮名にして心の優しさとか暖かさを表現したわけでもなく、むしろ読者が追っていくのは業の深いヒトの心のもろさ、だったような気がする。
では、カタカナでココロというと、ちょっと思い浮かばなくて、あ、そうかアニソンが好きな方はココロオドル?
人工生命体にもしも心が生まれたら、その論理的で合理的で調和もプログラムされた心の上位互換は、ココロと呼ぶのかもしれない、知らんけど。
遠く?
遠く...どこまでも遠く...
流れる河に?
旅、って目的とそのための移動に分かれているわけではなくて、移動そのものも楽しい旅だと考えていて、移動の過程にも楽しいことや、知らなかったことはたくさんあるし、目的のみを重視してそれを空にしてしまうのは、とてももったいないんじゃないかとも思う。
じゃないと、しっかり準備して行ってみたらマーライオンだった、みたいな展開のときに寂しくなってしまうけど、でもいろいろ調べて、飛行機に乗って、マレーシアの街や人たちを見て、美味しいものでも食べたらそれで全然十分なんじゃないのか、というかたとえ美味しいものが外れだったりしても、それはそれでとても楽しい。
多分これって、旅行だけじゃない。