空を見上げて心に浮かんだこと、白い雲の形。
張られた電線、飛行機が翔び去る。
でも実際には、どこに行っても、何の変哲もない建物の一部ばかり。
ある価値観というか尺度(物差し)で評価すると優劣が出るものだし、その価値観に依存した集団ではやむを得ないことなんだけど、だからもちろんその価値観や他者の評価は一面的なもの。
そこで優れているヒトがきちんと幸福なのかというとそれは全く別で、優れているけれど幸福ではないとか、優れているためにさらに熾烈な競争が続く負荷なんかもあるんだろう。
それに価値観よる評価は相対的なものなので、ある基準を満たしてもさらに上はあるもので、やっぱり現状には満足できない。これは、何かの価値観を条件に幸福を見てるときには実は同じで、達成感は得られてもそれは幸福とは違っているかもしれない。
七夕って、読めなかったんですよね。
今でもどうしてこれが「たなばた」と読めるのか分からない。
そこで調べてみたんですが、もともとは中国の習俗で、五節句の一つの「七夕(しちせき)」で、すでに牽牛・織女伝説。(他は人日、上巳、端午、重陽)
この習俗が奈良時代に伝わって、宮廷ではこれに古来の「棚機つ女(たなばたつめ)」伝説を結びつけ、民間には近世から伝わった、らしい。
つまり、「七夕」(しちせき)と書いて「たなばた」(棚機)と読む。
「七」が「た」なのか、「たな」なのか、「たなば」なのかなんて超越した読み方で、差しずめ現代では「本気」と書いて「マジ」、もしくは「三連星」と書いて「ジェットストリームアタック」と読むような言葉らしいです。
友だちの思い出だけど、夜の浜辺に海を見に行って、でも月もなく、ひたすら暗い中にどうどうと潮騒が響いてて、浜の向こうには焚き火して遊んでる人たちがいたので、そちらに向かって歩いて行ったら、近づくとそこには誰もいなかった。怖くなってそこから慌てて帰ってきたと言っていた。
お盆の迎え火だった。
神様だけが知っている
全知全能の神はいるのか
もちろん、もしもいないのなら、それでは御自分は何かということになる
だからいるのだとすれば、それでは西や東や南にもいる他の全知全能の神々とは何なのか
全知全能の完全体なのに、なぜお互いに差異(欠落)を持っているのか
もしもこれらの神々が、全知全能な唯一者の、人間とか世界に対するハブというかインターフェース端末なのだとしたら、どうしてヒトはそのインターフェースをめぐって敵対しなければならないのか
なぜそれを無意味だと示さないのか、同じ完全体の各地域の端末をめぐって、どうして世界を不幸にするのか
そうしてそれではヒトが滅びたとき、全知全能の神はどうやってその存在を維持するのか、それは存在しないこととどう異なるのか
観測者がいなければ、もしくは観測しうる機能がなければ、存在が消滅しかねない全知全能な完全体というのは、ありうるものなのか
だから場所と時間と機能と対象者とその言語で限定されて、差異という欠落を孕んでしまった段階で、それは全知全能の唯一者ではなくなってしまうのでは。
(オチなし)