大好きな君に、チュールをあげよう!
昔の人ならば、2つの車輪がまっすぐ前後についた乗り物で隣の村まで行ってこいと言われたら、どう考えても無茶だし倒れる、実際に乗れない。それでもどうしてもというなら、たった一つの手段は三輪にするか補助輪をつけるしかない、と思うだろう。
でも今では、誰もが考えもせずに自転車に乗っている。
たった一つの手段なんて、たいがいは今の条件と対応手段から短絡的に捻り出すもので、きちんと向き合って、しっかりいろいろと見てじっくり工夫して、人間の方が少し進歩すれば、なぜか簡単にできる方法が見つかる。一度できればどんどん安定していくし、なぜか誰でもできるようになる。
たいがいの問題点なんて、自転車に乗ることほど飛躍した理不尽な発想ではないし、自転車を渡されて呆然とした昔の人より絶望的でもないんじゃないかなと思う。
「これがもう最後の手段」に飛びつく前に、もう少し問題点と向き合って、膝を擦り剥きながらでもまず自分が進歩してみて。
列車に乗ってて楽しいところは、移動が気楽。変わっていく風景を見ても、周りの人たちをちらちら観察しても、関西ならその会話を聞いても、本を読んでも、音楽をまとめて聞いても、何かを食べても、居眠りしてもいい。
運転も楽しいけどずっと緊張するし、バスでは本が読めない。
そして時間がたてば、もう違う町の空気の中にいる。
現実逃避って悪い印象で語られがちだけど、むしろ現実社会の方がどう見てもずっとアレなので、これにすっかり適応できる方がいろいろと問題だとしか思えない。
むしろ哀しいのは、この社会に盲目的に適応してしまって、自分のありたい世界や心が満足する活動がない、主体性を取り戻せなくなってしまった存在だと思うので、社会で収入を確保しながら本業なり推し活を精力的に続けていく方がずっとまともな生き方だと思うけど、こういう労働とか時間とか価値観を放棄しない、社会に人間性を上納しない、過剰適応とか依存とかしない人間をジジイたちは現実逃避だと毛嫌いするだろう。
問題のある社会環境からはきちんと距離をとる。
気にせずに本当に大切なことをする。
自分が生きるべき世界を枯らしちゃったら終わりです。
物憂げな空、今にも降り出しそうでずっとそのまま。
もう辛そうなので、泣いてもいいんですよ。