『雨の香り、涙の跡』
古書店員は本棚の奥でじっと息を潜めていると思われがちだが、実は様々な場所に出向かなければならない仕事だ。
古書の買取のほとんどが、売主のもとへ赴いて行われる。
本にとって湿気は大敵。
梅雨から秋にかけては特に神経をとがらせる。
今日も僅かな雨の香りに顔を顰めながら、売主の家へと急いだ。
保存状態も気になるし、雨が降り出す前に運び出したい。
書庫へ通され、埃とカビ臭さに目を瞑る。
黙々と作業を進めながら、一冊の本に目が止まった。
いや、正確には、ある本の奥付に。
愛書家によくある蔵書印。
その一部が滲んでいた。
ぽたりと落とされた雫か何かで。
注意深く本を検めると、頁の間に小さな紙切れが1枚挟まっていた。
ひっそりと隠すように。
そこに書かれた言葉を、ここに暴くことはやめておこう。
雨の香りが強まった気がする。
そっと元に戻して、また作業を再開した。
『糸』
人の縁とは糸のようなものだなと、たまに思う。
これまで出会った人たちすべてが、今でも交友しているわけじゃない。
いつの間にか連絡が途絶え、疎遠になった人の多いこと。
互いに努力して太くなるよう縒り合わせないでいると、あっという間にぷつんと切れる。
頼りなくて儚いものだ。
そしてそれに振り回される。
もっと自分が積極的に関わっていたら、と何度も思ったけれど。
それができない性分なので、たまに無性に淋しくなる。
かと思えば、人が周りに多くいて、相手からグイグイ来られると、それこそ見えない糸で雁字搦めにされているようで息苦しくなる。
なんとも厄介でままならないものよ。
『記憶の地図』
ショッピングモールの中を歩いている時、
街なかを車で走っている時。
そこにあった店舗が無くなっていたり、建物が壊されて更地になっているのを見て、それまでそこに何のお店や建物があったのか思い出せないことが多々ある。
自分がよく利用する場所でないと、風景の一部としか認識していないのだろう。
家から駅までを地図に書けと言われたら書けるけれど、その途中にある建物や店舗まで書けと言われたら、多分書けない。
自分が住んでいる街を、私はどれだけ記憶しているだろう。
もし引っ越すことになったとしたら、懐かしく思い出すのはきっとほんの一部。
もう少し、いろんなものを記憶しておこうかな。
『マグカップ』
普段使っているマグカップが、欠けてしまった。
そのまま使い続けてもよかったのだけれど、食器を洗う時に手を切りそうになったので新しいものを買うことにした。
さて、どんなのにしよう。
これといってこだわりはなかったが、臨時で使っている貰い物のマグカップが下から上へ広がるような形でどうにも不安定だ。
何度か倒して零してしまった。
なので、新しいのは安定感を重視しよう。
そう思ってから数日、某ドラッグストアでレシートの点数を集めるとマグカップやお皿が割安で買えるキャンペーンをやっていた。
サンプルを見ると、実にどっしりとして安定感がある。
絵柄も可愛い。
これにしようと、レシートを捨てずにとっておき、ついに手に入れた。
うんうん、いい感じ。
また割ったり欠けたりするまでは、これでいこう。
『君だけのメロディ』
頭の中でぐるぐると鳴り続けるメロディを、イヤーワームというそうな。
多分、過去に耳にして脳に眠っていたものが、ふとした拍子に思い出されるのだろう。
少し前だが、朝から晩までずっと頭から離れないメロディがあった。
Googleの音声検索で調べても、それらしい曲はヒットせず。
知人友人同僚にまで鼻歌で聞かせても、誰も思い当たる人はいなかった。
もしかしたら、あれは私の脳が生み出したものだったのかも。
私だけのメロディ。
そうとでも思わないと、曲名がわかるまでずっとモヤモヤしてしまう。