「誰もが苦しんでいるし、悩んでいます。みんな同じです」
担任が病欠で、非常勤講師が代わりに授業を行った日。
人権学習で「いじめ」についてのDVDを流し終わり、彼女は何を思ったか、そんなことを口走った。
その様子はただ無表情に、DVDの内容なんてどうでも良さげだった。
彼女の瞳には傷ついて涙を流す少女の姿が、別の化け物にでも見えていたのだろうか。
みんな同じ、だからどうしたのだろう。
いじめられっ子が学校に行けなくなったのを自意識過剰だと非難するつもりか、もしくはいじめっ子にも相応の理由があるから許すべき、と諭すのか。
馬鹿らしい。
どこまでも外野の意見だ。
当人にしか分からないことを分かったような気になって、朗々と言い捨てるとは。
どうせいじめに遭ったこともなく、ぬくぬくと育ってきた人なのだろうと、私は見当違いな考えを話す彼女を見て思った。
けれど、それはあくまで偏見と憶測に過ぎないのだ。
彼女の発言から育った環境を推測し、罵る。それこそ馬鹿のすることだろう。
しかし、誰もが苦しんでいるし、悩んでいます、という言葉には多少なりとも同意した。
誰もが苦しんでいるし、悩んでいる。
だからこそお互いに手を差し伸べるべきだ、と世間は言う。
「どれも綺麗事に過ぎないんだけどなあ」
社会に出たこともなければ大人を知ろうとしたこともない。
ただ、現状が理想に程遠いことは知っている。
いつかはそうなれば良い。
だから、私もこれから会う誰かには手を差し伸べようと、密かに決意した。
誰もがみんな、ひとり寂しく泣かないように。
過去、花束を貰ったのは二回。
幼稚園の卒園式のとき、先生から「小学校でも頑張ってね」とチューリップを貰ったのが一回目。
次いで中学校の卒業式前に、部活の後輩たちから手帳型の書き寄せと共にガーベラ&カーネーションを貰ったのが二回目。
そのどちらも、とても嬉しかったことを鮮明に覚えている。
そして、じきに三回目の花束を私は貰うのだろう。
新たな門出を祝われて、次のステップへと足を踏み出す私たちに向けた応援の花束を、ひとつ、教師手ずから貰うのだろう。
それを踏まえて、卒業する私も心温まる花束を渡したいと思っている。
精一杯の感謝を込めて、親身に相談に乗ってくれた先生方に向けた、スイートピーの鮮やかな花束を。
自信を持って、押し付けてやろう。
心配性の先生に、もうそれは不要だと、胸を張って言い放ってやるのだ。
「お世話になりました!」
きっと、笑って見送ってくれるだろうから。