【特別な夜】
その日は僕にとって、特別な夜だった。
いや、僕だけじゃない。つい先日上京した友人にとっても、僕が推してるアイドルにとっても、…それこそ海の向こうに住む人たちにとっても、あの日は特別だったに違いない。
赤色の月だ。
燃えているのとは違う、ルビーのような濃く鮮やかで深い赤色を、月が纏っていた。
あれは間違いなく月でした、と、権威ある天文学者が明言した。
のちにわかったことだが、当時月の探索をしていた人工探査機も、月が赤く染まった様子をカメラで捉えていた。
地球上に住む全ての人にとって、それは特別な夜だっただろう。
優しい黄色の光で夜の地球を照らすあの月が、力強く、ともすれば禍々しくも思える真っ赤な光を放っていたのだ。
何事だと誰もが思った。月が爆発して消滅する前兆だとか、神の怒りだとか、未発見の超常現象だとか、いろいろと議論が交わされた。
………が、その夜をすぎて今や1ヶ月。
僕の生活には何ら異変がない。
上京した友人からも、無事に就職できたと連絡が来た。テレビをつければ、推しのアイドルがステージで歌って踊っている。
学者たちの間では今もなお議論が続いているらしいが、僕たち一般市民にとっては、もはや過ぎたこととなっていた。
それでも、ふとしたときに思い出す。あの夜の光はなんだったのか、と。
今日もあの夜を思い出した。
半ば無意識に部屋の窓を開け、夜空を仰いでみる。星座はよく知らないが、特徴的なオリオン座だけはすぐに見つけられた。輝く星々の中に、黄色い月が輝いて、街を照らしている。
_____________ああ、今日は普通の夜だ。
日光の届かない、深く暗い海の底にも、光はあった。
_____________アリシア・アメスタシア
彼女は海底の住人。
淡い翠の瞳、ふっくらとした桃色の唇、滑らかで砂のように白い肌。上半身は地上に住む人間と似たようなつくりだが、下半身は青と紫のグラデーションを帯びた鱗に覆われている。純新無垢で美しい、海の妖精とまで言われる人魚。
輝くような銀髪は、決して海中にはあるはずのない金色の髪飾りで纏められている。蝶の形をした、美しい髪飾り。
けれども、彼女は知らない。
その髪飾りが蝶の形をしていることも。蝶が何であるかすら、彼女は知らない。蝶は海底にはやって来れないから。
光のない海の底では、彼女こそが光だった。
みずみずしく輝かしい、アリシアこそが。
中でも、どこからか髪飾りを見つけてそれをつけ始めたときから、彼女はいっそう輝きをましたように、周りの魚たちは感じていた。
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アリシアが海底を泳いでいると、たまに硬くて大きななにかと出会う。周りの魚たちは、それを船と呼んでいた。
地上に住む人間たちが、海を渡るために使っているんだそうだ。
でもけっきょく、こうして海に沈んでしまう。人間たちは海に出ることはできないのだ。だから彼らは、陸地で静かに暮らしているのだと、魚たちは言った。
そしてこうも言っていた。
絶対に地上に出てはならない。人間はとても恐ろしい生きものだから。見つかれば、すぐにでも捕らえられて鱗をすべて剥ぎ取られてしまう。
アリシアはそれを信じ、ずっと海底で暮らしていた。
ある日、魚たちとかくれんぼをしていたとき、アリシアは大きな船を見つけた。今まで見てきたものより、ずっと大きな船だった。
(どうして人間たちは、どんどん船を大きくするのかしら?大きいものほど沈んでしまうのに)
アリシアはそれが不思議で仕方がなかった。
ちょうど鬼役の魚が近づいてきたのを見て、その船の中に素早く隠れた。
船の中は広い。
なのに、空間がたくさん小分けにされていた。分けない方が広いのにと思った。小分けにされた空間には、2人ずつくらい、人間がいた。みんな苦しそうな顔をして、動かない。人間は、海の中では生きられないのだ。呼吸、というものが必要なのだと、教わった。
船の中は面白いものがたくさんあった。
人間たちはなぜだろうか、みんな布を纏っていて、煩わしそうだった。でもそれをかわいいとも思った。
魚を模したふわふわな物体があった。小さな子供が抱いていた。深海に住むアリシアには見覚えのない魚の形だった。
本というものを見つけた。黒い線がたくさん引かれていて、アリシアには何が何だかさっぱりわからなかったが、ところどころに描かれた綺麗な絵には、目を輝かせた。
船の中を思う存分に探検していたところで、一人の動かない人間が目に入った。
他の人間たちよりもカッチリした、息苦しそうな布を纏っていた。両手でそれはそれは大事そうに、小さな箱を持っていた。
アリシアはなぜだかそれがやけに気になり、近づいて箱をその人間の手から抜き取った。固くなった手から箱を取るのは難しかったが、なんとか抜き取った。
開けてみるとそこには、美しい髪飾りがあった。
それが髪飾りであると、最初アリシアはわからなかったが、同じようなものを頭につけていた小さな人間を先ほど見たのを思い出した。
髪飾りを気に入ったアリシアは、さっそくそれで銀髪を一束纏めて、これまた先ほど見つけた、自分の姿がうつる壁の前に行ってみた。
銀色の髪の上に金色の髪飾りは、よく映えていた。
「おーい、アリシア。降参するから、はやく出てきておくれ!もう君以外は、みんな見つけたんだ」
鬼役の魚の声がした。
「じゃあ、私の勝ちね!今行くわ!」
元気な返事をしながら、アリシアは船を出る。金色の髪飾りをつけたまま。
(とっても素敵な髪飾り!それに、船の中って面白いものがいっぱいだわ。…人間はとっても怖いけれど、いつかちょっとだけ…ちょっとだけ、上の世界に行ってみたい…)
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アリシアのその願いは、まだ叶えられていない。
周りの魚たちが止めるからだ。みんなの光であるアリシアには、一生、海底の住人でいて欲しい。…それが、魚たちの願いだ。
海底を、その明るい笑顔で照らし続けて欲しいのだ。
けれども今、彼女が一番まぶしい顔をするのは、地上を勝手に想像し、夢を抱き、それを熱烈に語っているときだった。みんなと遊んでいるときとは、まったく別の種類の笑顔。…わくわくからくる笑顔。
彼女の美しさをまたひとつ磨いたのは、「好奇心」だった。