10月半ばの晩秋、冬の季節風の先陣をきる北よりの寒風が刺すように吹き付ける。
『今日、風強くない?せっかくヘアスプレーをかけたのに、こんなに風強いんじゃ意味ないよ!前髪、終わりじゃん!』
『ウチ、目の乾燥がちょー酷いんだけどぉ!まじで何とかしてくんないかな、神様〜っ!』
学校に近付くにつれて、ちらほらそんな声が聞こえてくる。
僕は朝に弱いので、登校中もぼーっとしながら、特に考え事もせず目的地に向かって歩く。
イヤホンを装着して、恐らく音楽を聴きながら登校する生徒をちらほら見かけるが、もしかしたら、英語のリスニング音源を聴いているのかもしれない。
まあ、うちの学校はそんな意識の高いヤツなんていないだろう。所詮、公立の荒れた中学だからな。将来の自分のために―…だなんて、微塵も考えてないはずだ。強いて言うなら、受験一歩手前になって、ようやく焦るぐらいだろうか?
まあ、いずれにしろ、リュックのチャックを開けてイヤホンを探し出すのが既に面倒だ。それに、聴いている音に夢中で、後ろから来た自転車に衝突することを想定したらどうするのか。そんなの、より展開が面倒なのである。
そんな訳で、僕は毎朝、意思もなく学校に向かっていた……のだが。
「さすがに風が強いな……。」
見えないぐらいの小さく細かい氷柱が、僕の頬をかすってるんじゃなかろうかとすら思える強風が僕を襲う。
昨日までは眠い目をこすって、特に何も考えず歩いていたのに、この空っ風のせいですっかり目が覚めてしまった。おかげさまで、この通り意識もはっきりしている。
きっと、いよいよ秋が終わるぞ、寒い寒い冬がやってくるぞ、用心したまえ―という、神様がサインを出しているんだろう。
ふと、下がっていた頭を上げ、目線を上にしてみる。ここは、地元じゃちょっと有名なイチョウ並木の道だ。
しかし、この間は道路も空も一面イチョウ色に染まっていたというのに、気がつけば黄色の道も空も消えていた。辺り一面、空は秋の寂しい紺碧の空になり、道路は消えかかった白線と、空っ風で乾燥しきったアスファルトに変わっていた。
(なんだ。毎朝、僕が無意識に眺めている景色じゃないか。)
だが、安堵して胸をなで下ろしたのもつかの間のことだった。
(いや、ちょっと待てよ。僕は通学路の景色なんて、さっぱり見ていなかった。だから、イチョウ並木から、時間をかけていつもの通学路の景色へと戻っていても、あんまり違和感を感じなかった。)
僕はてっきり、神様が『いよいよ秋が終わるぞ、寒い寒い冬がやってくるぞ、用心したまえ―』と、サインを出しているんだろうと思っていた。
しかし、本当は、神様が『何も考えず時間を過ごすよりも、もっと視点を増やして周囲を見てみたまえ』とサインを出しているのではなかろうか。
『ぎゃーっ!ついに私の無敵の前髪が吹っ飛んだんだけど!これが世にいう木枯らし、ってやつなわけー!?』
『うっわー、これってあれじゃん!"外出た瞬間 終わったわ"ーってやつ!』
"神様のサイン"なんて嘘くさい言葉も、『もしかしたら本当に神様がくれたサイン―チャンスなのかも』って思ってみると、いつもは聞いてすらいない同校の女子生徒の会話がスラスラ耳に入ってくる。
「うわっ!」
籠ったごうごうと音を立てる風が再び吹く。
『いやーっ、私の前髪がぁー!』
『やーいやーい、あんたの前髪、ひじきから飛び出たチンアナゴみたいになってやーんの!』
『はあー!?それ、どういう意味よっ!』
「…………。」
…でも、ごめんなさい、神様。
もし本当に"もっと視点を増やして周囲を見てみたまえ"というのなら、まずは僕の目の前にいるこの女子をなんとかしてもらっても、いいでしょうか。
『あはははっ、風強すぎて今にも死にそうなんですけどー!』
『でも、あんたの前髪はとっくに死んでるけどねー』
『逆になんであんたの前髪は死なないわけ!?』
耳元でごうごうと鳴る風の音よりも、刺すような痛みの伴う寒さよりも、この強風に負けない鋼のような前髪の方が正直気になるな、と思いつつ。
「早く学校に着きたいから、早歩きで歩くとするか!」
以前はぼーっと歩くだけの通学路が、神様が作ってくれた木枯らしというチャンスのおかげで鮮やかに変化していく―そんな日々がはじまると考えると、ほんの少しだけ楽しみである。
『あんたの前髪、外出た瞬間オールバック状態だったけどね』
『わーっ、言ったな、おまえー!』
「みてよ、今日の空!」
バルコニーに出ていた彼女が、室内にいる俺を見るべく、くるりと振り返る。
風呂も終わって飯も食った俺は、室内のカウチソファにゆったりと座り、リラックスしながらバルコニーではしゃぐ彼女を見守る。
「ねえねえ、一緒に見ようよ、とっても綺麗なんだから!」
ガラス窓越しでも分かるほど、満面の笑みを浮かべた彼女は天にむかって指をさす。
最近、どうも曇りの日が続いて星が見れない状態だったたから、今日みたいに澄みきった夜空に輝く星が見れて嬉しいんだろう。
「いや、俺は遠慮しとくよ。仕事で疲れてるから。」
「そっか…うん、わかったよ!」
野外と屋内の壁を経て聞こえてきた彼女の声は籠っていた。彼女は再び、バルコニーに手を乗せて星空を眺める。
月明かりに照らされる彼女の長い髪と、部屋明かりにうっすら照らされた艶やかな背中は形容しがたい美しさを感じる。
「…綺麗だ」
「えっ?外からだと何を言ってるのか聞こえないよー!」
今宵は月も星も綺麗だが、月も星も美しい彼女を引き立てる添え物にしかみえない。
こんな俺は、きっと彼女のぞっこんなのだろう。