みかん。
みかんがおいしい季節になっている。
皮が薄いほうが良い。
小さい方が味がまとまっていておいしい。
三ケ日の早生みかんは今月の上旬辺りから微妙となっており、早生みかんの季節ではない。
全然頭がまとまらないが、年末なんだからと言い訳つけて、ぼんやりしていたい。
冬休み。
年末年始のお休みで、オウチでぬくっていると、玄関のチャイムが鳴った。
時間指定していたヤマトが来た。
お名前と住所を確認して、小さい荷物を受け取ると、すぐに引き返す足音がする。
玄関扉が閉まるまでの一瞬で、年末の宅急便の忙しさが手に取るようにわかった。
休みを特権とせず、このような寒い夜でも働いている人に何らかの思いを馳せて、この文章を書いている。
でも、エアコンの効いた部屋にいれば、やっぱりみかんを食べちゃえ、ってなる。
手ぶくろ。
毎年どこかに行く奴。
まだ使ってないヤツ。
だって、スマホいじりたいんだもの。
そんな感じで、手ぶくろとかいうものを使わない年が増えている私。
でも去年コンビニの手ぶくろを買ったんだけど、いい感じだったよ。
5年くらい前のやつは、「手ぶくろしててもスマホいじれます! 指先の素材が色が違って通電できます!」
みたいなこと言っておいて、全然反応しなくて結局手ぶくろ外して操作して……みたいなことになってた。
最近はそんな面倒なことをしなくてもよくなったので、時代の進歩が感じられて良い。そんな去年買った手ぶくろは、どこかに消え失せました。また買わなきゃってやってるから、毎年手ぶくろの品質を確かめてるセルフの人になっている。
お題とは関係ないが、昨日(12/27)で仕事納めでして。
本来だったら12/29までですんで、ナイス土日! と土日を褒めたいと思います。
みかん食べよう夜の会に参加します。センキュー。
変わらないものはない。
そう断言されると、変わらないものを探してみたくなる。
十歩ほどの歩行速度時間で、「変わらないものはない」というのが変わらない、くらいしか見当たらない。
これは変わらないものを答えた気になっていて答えてない。冬のなかに雪が見つからなかったので、冷蔵庫で製氷したようなはぐらかしだから、やはり変わらないものはないと断言してしまっても良い。
視界にあるものは日々刻々と変化している。
モノの最小単位は、原子・分子なので、これが微動として動かないというわけには行かない。
しかし、この微細な変化は、肉眼で判別できないレベルは無視してしまっても構わない。
この「無視」の度合いによって、人は、「変わるもの」「変わらないもの」を区別していると言える。
これは、時間単位が永遠かどうかでも関連してくると思う。ひと一人の人生についてか、人全体のみならずこの星について考えるまで引き延ばしていくとややこしくなる。
やはり時間は延ばしちゃいけない。500年後の未来なんて、僕らには関係のない話なのだ。
そもそも、僕らが目撃する(あるいは見えないが目撃しているはずの)変わるものを追いかけ続けることは多分に疲れるし、どこかで無理が生じる。
人生とは休息が必要だ。そのために変わらないものを見てぼーっとすることで安堵を会得している。
繰り返し訪れるモノに対しても「変わらないもの」と人は認識しているが、それは何度も来る規則正しいことに関してであって、本質は刻一刻と変わっている。
変わらないものは多数の奇跡と多数の時間、多数の犠牲の中で存在意義を発揮している。
……まあ、この考え方は真逆もあるけど。
秋冬は毎年訪れるが、毎年変わっている。
秋冬は毎年訪れることは約束されてないが、人は来るだろうと思い込んでいる。
どう書いたら良いかわからないが、まずは正答(=)を理解して、類似(≒)たちを見て、正しい(=)かどうか判断する。そういう回りくどい遊びをしたい生き物なのだろう。
そんなもの、前提条件によって答えの導き方が違ってくる。愚かな生き物だ。
クリスマスの過ごし方。
いつも通りです。
とは言え、東海道線が止まったらしい。
東戸塚あたりで沿線火災だと。
朝にも人身事故が起こったらしくて、クリスマスで人身事故ねぇ……などとちょっと考えてしまった。
数分間の思索の末、単純な答えにたどり着きました。
神はいるかもしれないが、誕生日はありません。